おはようございます。けうです。
「私の個人主義」の講演の中の二章。
現代日本の開化について話そうと思います。
現代日本の開化とは
夏目漱石は語ります。
開化というのは琥珀の中の虫のようなものだ、と。
学者にしてみれば琥珀というのはとても価値が高いけれど、実質として見ると中に入っているのはただの虫である、と。
他にも言います。
モーバサンの小説を出してきて、ある男が妻に嫌気がさす。
嫌気がさしたから、置手紙をして妻を置き去りにして友人の家に隠れていた。
すると、妻が乗り込んできて、妻が「あなたが私を捨てるつもりならば私は死んでしまう」、と。
男が平気な顔を装うと、妻は窓から飛び降りてしまう。
すると、死にはしなかったけれど不具になってしまった、と。
もし男の疑いも良い加減な程度で留めておけばこれほどの大事には至らなかったかもしれないが、そうすれば彼の懐疑(妻は男のことを想っていないのではないかという懐疑)は一生徹底的に解ける日はこなかっただろう、と。
つまり、現代日本の開化というのは、こういうものだ、というように比喩を尽くして漱石は語ります。
「日本の現代開化の真相もこの話と同様で、わからないうちこそ研究もして見たいが、こう露骨にその性質が分かって見るとかえって分からない昔の方が幸福であるという気にもなります。」
これを現実に即してみます。
例えば、私は哲学をやっています。
すると、進んだ考えとか、根本的な考えが入ってくる。
そうなってくると、現実的に疑問に思うようなことが多々でてくる。
ある部分で進んだ考えかもしれない。
出てくるのだけれど、私の中で古い考えの部分と、急進的な考えの部分がでてきて、私は自分の二面性に苦しめられるということになります。
例えば、古くからの良き母親という概念がある。
哲学的には、とか、今の進んだ社会的にはその母親像は遅れていると考えたとします。
けれど、子どもにとっては遊んでくれる母親の方がいいのであり、子どもは親の考えが理解できなかったりします。
遊んでくれるというのは子どもにとって一番かもしれない。
それは、哲学的にも、考えは発展していくわけではない、という考えに当てはまります。
ただ環境が変わって、それに適した思想になるだけなのだ、と。
例えば、科学が発展していって、生活は便利になっていきます
すると、歩かなくても良くなったり、洗濯物を干さなくてもよくなったりする。
けれど、その分身体を動かさないから、身体を動かす利点が得られなくなる。
かえってその分の運動を取り入れるようになる、という考え方になります。
常識とは
この考えは進化しないという考え方。
それは、常識というのはただ周りの環境に左右されるだけであって、それが良いものだとか、悪いものだとか、そういうものの判断はやはり自分の内面にしかない、という考えになります。
漱石は考えについても述べています。
ある人が大学教授になる。
大学教授になって、一生懸命に勉強する。
すると、大抵の人は神経衰弱に陥りがちになる、と。
このことを私に当てはめれば、私は二年くらいまえからツイッターをやり始めて、新しい考え方をどんどん取り入れていきました。
副業はこうした方がいい、環境は変えた方がいい、自分の希望した環境にしていけば、希望した通りの環境になっていく、と。
そうしたときに、私は考えを取り入れているけれど、周りは取り入れていない、という現実が起こってくる。
哲学の話をしても通じる人は限られてくるし、相手が見えていない点も見えてくる。
ただ、見えていない点を指摘するとしても、それは進化ではないということが言える。
しかも、その人にあっている性質というものがあって、それはこちらが変わったから外発的に変えてしまうということにもなるのかもしれない。
それはちょうど現代日本の開化のように、私と言う環境が変わったために相手に変化を強いていくということ。
そして、それは、本人にとって必ずしも幸福ではないということ。
生き方について
昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。
ということから、今は生きるか生きるかという状況に追い込まれる。
「つまり、Aの状態で生きるかBの状態で生きるかの問題に腐心しなければならないという意味であります。」
小説の話に戻るとすれば、男は行動を起こしたせいで動けない妻に束縛されることになった。
でも、心の疑問は果たせた、と。
哲学で考えてみるとパラダイムシフトととると、今までいた常識がただ移り変わるということを意味する。
>>パラダイムシフト
それは優劣ではなくて、ただ価値観だけがかわったのだ、と。
では、例えば、認識論的切断と考えてみる。
>>認識論的切断とは
すると、これは本人の中で考えが進んだから進化になります。
これって、実は自分の内面にパラドックスを含みます。
現実は進化していないけれど、自分は考えによって進化していると思う。
そして、こういう自分の内面の二面性を説いた哲学者はたいてい鬱になっています。
アルチュセールしかり、キルケゴールしかり、考え方を現実に移そうとしたときに、考え方は進化しているけれど、現実では進化しているわけではない。
アルチュセールは自殺をはかろうとしますが、それに失敗しています。
かならずしも、自分の考え方が幸せに結びつくわけではないという例かもしれません。
なので、哲学というのは明らかにするのだけれど、結論が幸せになるわけではない。
私は親によく言われます。
哲学なんてしていても、実生活はひどいじゃないか、と。
何が哲学だ、と。
そして、そんな風に言われて私は反論はできないんですよね。
哲学ってそういうものだな、と。
実生活とは、もしくは一般的な幸福とは離れているんだろうな、と。
そして、それはどうすることもできなくて、ただどちらの場合も我慢がある。
Aの状態で生きるか、Bの状態で生きるか。
そして、人間というのはきっぱりと意見が持てるわけではない。
ぼんやりとしたものがあって、そのときの常識の上にいればそちらを選択して、かたや他の常識の上にいる場合は他を選択するのかもしれない。
それでも、心理学的に言えば、それをのちのち正当化するので、その選択をした方がよかったときっと思い込めるのだと思います。
漱石も語ります。
苦い真実を臆面なく諸君の前にさらけ出してしまってお詫び申し上げる、と。
ただ漱石の意見も生真面目の意見であるという点も同情的になってみてもらいたい、と。
では、聞いていただいてありがとうございました。