おはようございます。けうです。
「私の個人主義」夏目漱石の講演記録の本を読んでいます。
以前「利他」などについて取り扱ったときに、夏目漱石の話をしていて、漱石はいまだにその本を書いている人たちに感銘を与えていると述べていました。
>>利他とは
なので、家の本棚に昔読んだ論文があったと思い立って、探し出して読んでいます。
すると、古くて新しいというような問題について扱っていて、今でもなるほど、と納得できるものが多くあるなと思ったので紹介していきます。
私の個人主義という本の「道楽と職業」という題です。
資本主義における職業とは
夏目漱石は先見の明があったと言われています。
このまま日本が進んでいくと、こうなるだろう、という予想です。
ここでは職業について話していました。
今は資本主義社会と言われています。
資本主義社会における職業の話をまずはしていきます。
資本主義のシステムの一つを紐解いていくと、分業です。
昔は自分で食べるものを田畑で耕したり、移動手段も歩いたり、ほぼ自分一人で補ってきました。
けれど、今の私たちからするとそれだと効率的ではない。
私たちが今の仕事、例えばプログラミングだとか会計だとかをやろうとすると、農業をやることはありません。
生きるためにどこかに大幅な力を入れなければいけない。
それを軽減させたのが資本主義です。
分業システム。
私は先生なら教育として教えることに専念すればそれが他の人の手足になる。
かわりに、簡単に食料を手に入れられるようにしてもらえるというシステムが資本主義です。
実質的に他人の手足になって働くので、その分の報酬が職業では得られます。
漱石は言います。
「道徳と職業」を分けて考えよう、と。
職業というのは資本主義での分業をになうものです。
他人の手足になって、ある人は食料を専門で扱うし、ある人は学業を専門で扱うし、ある人は装飾を専門で扱う。
これが職業と言うと漱石はいいます。
これは「自分のためにする事はすなわち人のためにすることだという哲理をほのめかしたような文句になる」と述べます。
つまり、他人の手足の一つになる仕事を引き受けるから、その仕事をするだけで他人の為になるのが職業だと述べています。
だから人のためになり、お金がもらえる、と。
人の御機嫌をとるのが職業
人のためにする、と聞くとなんて善い事なんだろう、と思いますよね。
でも、さらに漱石は続けます。
「そこでね、人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。人を教育するとか導くとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るのです。人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままにといういわゆる卑俗の意味で、もっと手短に述べれば人の御機嫌をとればというくらいの事にすぎんのです。」
つまり、人の手足となって細やかなところまでできるようにすると、その人にとっては便利だなと思うのでたくさんのお金が入ってくる。
事実の上から言えば、人のめんどくささだとかを省いていくから、それが自分のためになって、自分も贅沢をできるのだと説きます。
これが資本主義における職業なのであり、稼げば稼ぐほど他人の便利さを助けていきます。
自分をなくしていって、他人の手足になることがお金を得ることにつながります。
専門性が進めば進むほど、当面のこと以外はなにもわからなくなって、自分一人では生きていけなくなると言うのです。
その職業を突き詰めていけば、どこまでも他人本位になっていきます。
ここまでが資本主義社会の職業の話。
道楽とは
では、道楽とは何かという話にうつります。
「ただここにどうしても他人本位では成り立たない職業があります。それは科学者、哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做すより他に仕方がないのです。-世の中にあれほど己のためにしているものはないだろうと思わずにはいられないくらいです。」
そして続けて、あれほど自己中心的で、わがままで、これほど道楽なものはないくらいです、と。
すでに職業の性質を失っていて、一般の御機嫌をとることがない。
つまり、科学者、哲学者、芸術家は相手の手足になるという性質がないのです。
なので、一部の人しか食べていけることにはならない。
「要するに原理は簡単で、物質的に人のためにする分量が多ければ多いほど物質的に己のためになり、精神的に己のためにすればするほど物質的には己の不ためになるのであります。」
資本主義から照らし合わせてみれば、食べるために精神的活動はそこまで重要視されませんよね。
手足になることはなくて、頭とか考えに影響を与えていると考えてみます。
そうしたときに、精神的な話は人によってかえって話を聞くと落ち込んだり、ためにならなかったり、ということがあるからです。
そして、漱石は言います。
なぜ道楽は自己本位でなければいけないのかといえば、己を伝えるため。
つまり、人のためにすると己というものが無くなってしまうのだと言います。
人に受け入れられたい心持ちでやるのには、自己はなくなる。
でも、自己を押し出すときには道楽になる。
「芸術家とか学者とかいうものは、この点において我儘のものであるが、その我儘なために彼らの道において成功する。-彼らにとっては道楽すなわち本職なのである」
道楽本位の職業というのもがあると漱石は述べます。
まとめると
職業は人の実質的な手足になる。
道楽は人に己を伝える。
なぜあなたは稼げないのか
ここまで読んで、私はなぜ自分があまり稼げていないのか、という理由が見えた気がしました。
いつも私は自分で考えるということを重視していて、自分の精神活動を主に見ています。
ということは、他人の手足にはなっていない。
資本主義でお金を得ようとするならば、他人のため、ということを考えて己を捨てて人のためにどうすればいいのか、を考えていくとお金がたまるということになります。
優劣という話ではないと私は思いました。
きっとこの資本主義社会で生きていくには両方の面が必要なのかな、と。
私の稼げないな、という悩みがずばり自己の精神活動を重要視しているから、と漱石に言われた気がしました。
こうやって分けて考えていくと、どちらを重視するときなのか、ということもわかっていいのかなと思いました。
稼げないと思うならば、きっとそれは自分の精神的なためにしているから仕方がないのだ、と。
そこで、どうしても稼がなければいけない場合は、己を押しとどめて他人のため、ということを考えていくのだ、と。
他人がどうすれば便利かを考えていけばいいということになります。
では、お聞きいただいてありがとうございました。