世人(ダス・マン)とは哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976)が唱えた概念です。
このセリフを思い出した!
- 世人はどのように定義されているのか
- 世人でないあり方とは|死を意識するありかた
- 世人と現代社会
私たちも自分のこととして「世人」を考えてみよう
哲学用語図鑑(田中正人 斎藤哲也)
ハイデガー『時間と存在』を解き明かす(池田 喬)
時間と存在(細谷貞雄 訳)
責任と判断(ハンナ・アレント 中山元 訳)
世人(ダス・マン)はどのように定義されているのか
先に定義した世人の内容だけをみると、ネガティブな意味合いを含むように思われます。
世人は「現存在」の一方の在り方
ハイデガーは人間を「現存在」と言います。
現存在の在り方は本来性と非本来性の2つにわけられます。
- 現存在⇒「存在」の意味を知ることができるのは人間だけ
現存在は本来性と非本来性に分けられる - 非本来性⇒世人(ダス・マン)
- 本来性⇒死を自覚している人
世人(ダス・マン)のマンは不定代名詞「ひと(man)」に定冠詞ダス(das、英語で言えばthe)を使っています。
英語で言えば「the one」というような非主体を表現。
「人は一般的に〇〇と言っている」というような表現を可能にします。
世人とは、私たちがそれぞれそれに従っている一連の「~するものだ」という規範の別名です。
「みんなそれは嫌だよね、みんなそう思うよね」のみんなが世人
「時間と存在」から世人を読み解く
ハイデガーは現存在が世間のうちに溶け込んでいて世間の言いなりになっていると思われるならば、この非本来性(世人)と本来性を明確にわける作業を必要とすると説きます。
世人の傾向を「存在と時間」から見ていきます。
3つの特徴。
- 世話話
- 好奇心
- 曖昧さ
世話話からみる世人
世話話は否定的な意味ではなく、私たちが日常的にする会話のことです。
「今日はいい天気だよね!」
例えば、このような話に対して、私たちはその真偽を問いません。
話された話は了解されるが、話題になったものは、ただおおまかに、なんとなくわかるだけである。
言われた話をともどもに同じような平均性で了解しているので、同一の意見を抱いているわけである。
(時間と存在 上 p359)
会話することがある一定の前提を含んでいなければ、スムーズに会話をすることができません。
世間話自体が人の「ものの見方」を規定しているのです。
好奇心からみる世人
ハイデガーは好奇心を「見ること」として語ります。
例えば、人は見るという言葉を他の五感においても使います。
ひびくのを見よ、かぐわしいのも見よ、良い味がするのを見よ、というように。
このような見るということが他にも適応されるのは、人間は「世界」をその形相だけについて眺めることが多いからです。
「現存在はひとえに世界の形相だけに惹かれる」と。
曖昧さからみる世人
日常的な相互存在において、だれにでも接することのできるものが現れて、それについてだれでもが一応のことを言えるようになると、やがて、何が真正な了解において開示されたものなのか、何がそうでないものなのかが、もはや決定できなくなる。(時間と存在 上 p368)
わかったからもういいや
「時間と存在」から見る世人
世話話、好奇心、曖昧さ、これらから世人をみてきました。
つまり、これらは人間の社会的な在り方でもあります。
現存在は頽落(たいらく、崩れ落ちる、堕落)するものとして、事実的な己自身からいつもすでに脱落しています。
現存在は世人の状態でいたいといつも誘惑されているのです。
「ハイデガー『存在と時間』を解き明かす」による考察
「ハイデガー『存在と時間』を解き明かす」(池田喬 著)からも引用していきます。
現存在はそれぞれ私のものであり、私、あなた、彼といった人称的区別がその存在理解の一部をなしている。
その意味で私たちはそれぞれ固有である。
それにもかかわらず、日常の主体は世人であり、自分自身ではない。(p229)
「日常生活の主体は世人」とは、私たちが自分を理解するときに比較によって自分を位置づけるからです。
例えば、「あなたは頭が良い」と言われました。
それはある一定の基準を想定して、それより上なので「頭が良い」という個性として語られます。
私たちは他人と自分を分けるために、ある一定の見方をするのです。
- 背の高さ
- 足の速さ
- 学力試験
など、このような比較を通して自分の個性を追求していきます。
世人であるとは、物事を自ら根本的に理解することなく、ひとが「そういうものだ」として共有している既成解釈に従って世界を切り取り、その見方で生きることである。(p244)
世人を見てきましたが、これと対になる概念「本来性」を理解していきましょう。
世人(非本来性)と本来性
現存在は世人(非本来性)と本来性から成り立ちます。
本来性⇒死を自覚している人
人は死んじゃうから、いつ死んでもいいように行動しようってこと?
こんな風に、自分が死ぬ存在だと自覚することは不安になることでもある…
本来性と責任
(ハンナ・アレントはハイデガーと愛人関係にあったと言われています)
- 世人(非本来性)⇒出世街道
- 本来性⇒世人の自己に耐えられないので、その社会から離脱する
現存在(人間)は2つの自己を持つことで、それぞれが対話をします。
その場合に、「自分と仲違いせずに生きていくことができないことを見極めたから」ナチス虐殺に加わらなかったのだとハンナ・アレントは語るのです。
本来性の自己はひ弱な存在です。
それゆえに、自分にその責任をとれないと思ったのならば、その社会から離れます。
その選択をできた人は、自分のうちに自己とともに生きなければならないことを知っている人(本来性、責任を自覚)と捉えることができるのです。
本来性は一般的ではないこと
死を自覚している存在とは、「自分は死ぬ能力を持っている存在、死に向かう存在」だと自覚している存在です。
つまり、世界の内で存在できるという根源的な存在能力には、自己否定的な部分があります。
具体的に本来性を想像してみましょう。
- 本来性の自己を優先するありかたは、みんな(世人)から見ればただ逃げた存在とうつるかもしれません。
- 責任をとる!と言って死刑を選んだとしても、みんなからみれば強がりと言われるかもしれません。
- 世間一般の目からは不気味に映る存在かもしれません。
- 周りからみれば理解できないものに、ただただ没頭している人かもしれません。
- その場に協力しない空気の読めない人に映るかもしれません。
なぜこのように表現できるかと言えば、世間一般(世人)と同じ尺度に従わせないと、理解不可能だからです。
世人からみた本来性は否定的に映るかもしれません。
人は自分から存在を始めることはできない
「本来性」を理解する上で、「被投性(ひとうせい)」についても触れておきます。
被投性⇒自分がある状況に投げ出されていること
私たちはものごころがついた時にはすでに存在しています。
- 貧乏な家に生まれた
- 気が付くと贅沢品ばかりが周りにあった
- 日本にいた
- システムの中にいた
- 生きるために働かなくてはいけなかった
- 戦況が悪いチームにいた
このように、あなたは気がついたときにはある状況下にあります。
世人と被投性の関係性をみてみましょう。
例えば、テレビをつけました。
この投げ込まれた状況下で、テレビでは新製品のスマホが紹介されていました。
あ、みんなが欲しいって言ってるからだ!
スマホって環境的に何か言われていたような…
無知で見落としていることも多そう…
私はこれを買うことで、不安にもなる…
責任は負わなきゃいけないかもしれない…
欲しくなったけど、まだ必要なかったかも…
そうか、私は操られるのが嫌いなんだ
あなたは気が付いた時には、そこに投げ込まれている存在。
そのときのあなたの状況、あなたの視点はあなたにしかありません。
そこで自分の死、自分の代理不可能性を自覚することが本来性です。
ちなみに、これは人から言われるような自己責任論ではありません。
本来性はあなたにしか理解できないものだからです。
「責任をとれ」と迫られてその責任を感じるのは世人的です。
世人とは|まとめ
世人(ダス・マン)とは哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976)が唱えた概念です。
でも、自分らしい生き方がいいな