ダス・マン

世人(ダス・マン)とは何か|ハイデガーの思想を紹介

  • 2022年11月2日
  • 2022年11月2日
  • 哲学

世人(ダス・マン)とは哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976)が唱えた概念です。

世人(ダス・マン)⇒日常に埋没するような生き方
想像してみてください。
あなたはニュースを見ました。
可哀そう
すると、一緒にニュースをみていた人々も言い出します。
「僕もそう思う!」
「私もそう思う!」
他の人の意見も同じです。
このように、みんなと同じ意見を言い、同じ行動をする「誰でもない人」。
同じ意見なので、他の人と交換可能な人。
このような人のことを世人(ダス・マン)とハイデガーは唱えたのです。
「私が死んでも代わりはいるもの」
このセリフを思い出した!
世人の概念は現代の私たちとも密接につながってきます。
構成内容はこちら。
  • 世人はどのように定義されているのか
  • 世人でないあり方とは|死を意識するありかた
  • 世人と現代社会
ハイデガーは哲学を身近にしようとしていたよ!
私たちも自分のこととして「世人」を考えてみよう
参考文献
哲学用語図鑑(田中正人 斎藤哲也)
ハイデガー『時間と存在』を解き明かす(池田 喬)
時間と存在(細谷貞雄 訳)
責任と判断(ハンナ・アレント 中山元 訳)

世人(ダス・マン)はどのように定義されているのか

先に定義した世人の内容だけをみると、ネガティブな意味合いを含むように思われます。

交換可能な人っていうのは自分がないみたい…
しかし、ハイデガーは人の在り方として、世人としての生き方は誰にでも当てはまるものだと述べます。
例えば、あなたは知識を持っています。
「〇〇年に戦争があったんだって」
「その原因は温暖化だってニュースで言ってた」
などなど、人々と話題を共有できます
実は、このようなお互いに共有した知識を語ること自体が世人としての生き方なのです。
えっ、会話って日常的にしていることだよ
ハイデガーは善悪や倫理については、はっきりと公言していません。
世人は人の一方での在り方を説いているのであり、決して否定的なことではないのです。

世人は「現存在」の一方の在り方

ハイデガーは人間を「現存在」と言います。

現存在の在り方は本来性と非本来性の2つにわけられます。

  • 現存在⇒「存在」の意味を知ることができるのは人間だけ
    現存在は本来性と非本来性に分けられる
  • 非本来性⇒世人(ダス・マン)
  • 本来性⇒死を自覚している人
聞きなれない用語が出てくるけど、ダス・マンもハイデガーの造語
ポイント

世人(ダス・マン)のマンは不定代名詞「ひと(man)」に定冠詞ダス(das、英語で言えばthe)を使っています。

英語で言えば「the one」というような非主体を表現。
「人は一般的に〇〇と言っている」というような表現を可能にします。

世人とは、私たちがそれぞれそれに従っている一連の「~するものだ」という規範の別名です。

日本語だと「みんな」かな。
「みんなそれは嫌だよね、みんなそう思うよね」のみんなが世人
このブログはわかりやすくをコンセプトにしているのですが、実はこの「わかりやすく」伝える行為というのは、まさに世人的な行為です。
「この筆者はこんなことを言っているよ!」
と、わたしがあなたに信じさせることは、世人的です。
ただし、ハイデガーは倫理や善悪を本に盛り込みませんでした。
では、なぜ否定的に読み取れるのか。
そのことも考えつつ、まずは「存在と時間」から世人の特徴を掴んでいきましょう。

「時間と存在」から世人を読み解く

ハイデガーは現存在が世間のうちに溶け込んでいて世間の言いなりになっていると思われるならば、この非本来性(世人)と本来性を明確にわける作業を必要とすると説きます。

世人の傾向を「存在と時間」から見ていきます。

3つの特徴。

  • 世話話
  • 好奇心
  • 曖昧さ

世話話からみる世人

世話話は否定的な意味ではなく、私たちが日常的にする会話のことです。

「今日はいい天気だよね!」

例えば、このような話に対して、私たちはその真偽を問いません

話された話は了解されるが、話題になったものは、ただおおまかに、なんとなくわかるだけである。
言われた話をともどもに同じような平均性で了解しているので、同一の意見を抱いているわけである。
(時間と存在 上 p359)

会話することがある一定の前提を含んでいなければ、スムーズに会話をすることができません。

世間話自体が人の「ものの見方」を規定しているのです。

え?ある程度予測を付けないと会話できないよ…
世間話をすることの前提に、世人でいることが含まれているのです。

好奇心からみる世人

ハイデガーは好奇心を「見ること」として語ります。

例えば、人は見るという言葉を他の五感においても使います。

ひびくのを見よ、かぐわしいのも見よ、良い味がするのを見よ、というように。

このような見るということが他にも適応されるのは、人間は「世界」をその形相だけについて眺めることが多いからです。

「現存在はひとえに世界の形相だけに惹かれる」と。

これはネットの前で目を酷使させている現代社会に当てはまる…
世間話は好奇心を語るものでもあります。

曖昧さからみる世人

日常的な相互存在において、だれにでも接することのできるものが現れて、それについてだれでもが一応のことを言えるようになると、やがて、何が真正な了解において開示されたものなのか、何がそうでないものなのかが、もはや決定できなくなる。(時間と存在 上 p368)

これってやっぱりこういうことか!
わかったからもういいや
世間話と好奇心が交互に行きかう中、曖昧さを得て次の話題に行きます。
つまり、本当に実行するという責任を負うような事態にならないように曖昧さを保持するのです。
自分で実行しなくても、誰かがやっているのをみて「予想が当たった!」と世間話でいうようになります。
自分で経験する前に興味が他に移っちゃうんだね

「時間と存在」から見る世人

世話話、好奇心、曖昧さ、これらから世人をみてきました。

つまり、これらは人間の社会的な在り方でもあります。

現存在は頽落(たいらく、崩れ落ちる、堕落)するものとして、事実的な己自身からいつもすでに脱落しています。

現存在は世人の状態でいたいといつも誘惑されているのです。

何か解釈したり行動することってめんどくさい…
例えば、人に対して「先生、母親、店員」というように呼びかけると、そのようなものとして会話が成立します。
経験も「やらなくてもこうなるでしょ」というような曖昧さを用いることで行動をしなくなります。

「ハイデガー『存在と時間』を解き明かす」による考察

「ハイデガー『存在と時間』を解き明かす」(池田喬 著)からも引用していきます。

現存在はそれぞれ私のものであり、私、あなた、彼といった人称的区別がその存在理解の一部をなしている。
その意味で私たちはそれぞれ固有である。
それにもかかわらず、日常の主体は世人であり、自分自身ではない。(p229)

「日常生活の主体は世人」とは、私たちが自分を理解するときに比較によって自分を位置づけるからです。

例えば、「あなたは頭が良い」と言われました。

それはある一定の基準を想定して、それより上なので「頭が良い」という個性として語られます。

私たちは他人と自分を分けるために、ある一定の見方をするのです。

  • 背の高さ
  • 足の速さ
  • 学力試験

など、このような比較を通して自分の個性を追求していきます。

世人であるとは、物事を自ら根本的に理解することなく、ひとが「そういうものだ」として共有している既成解釈に従って世界を切り取り、その見方で生きることである。(p244)

本ばかりで行動が少ない私には重い言葉…
現代社会は仮想現実を生きる世界ともいわれています。
パソコンの中に脳を移動させたとしても、映像の世界で生きられると思ってしまうような。
現代社会が特に世人的だとすれば、そうじゃない「本来性」って何かな

世人を見てきましたが、これと対になる概念「本来性」を理解していきましょう。

世人(非本来性)と本来性

現存在は世人(非本来性)と本来性から成り立ちます。

本来性⇒死を自覚している人

自覚?
人は死んじゃうから、いつ死んでもいいように行動しようってこと?
実は、このニュアンスとは違います。
例えば、「死を自覚していつ死んでもいいように立派な行動をしよう!」というあり方は世人的です。
多くの人が勘違いしそう…
「人というものは死ぬものだから、いつ死んでもいいように行動すべきだ」というのは、主語にpeople やthe oneを代入しても言葉が成り立ちます
まずは世人の規範から身を引き離します
「誰もがいつかは死にうる」ではなく「自分はいつでも死にうる」と自覚します。
生まれてから獲得できる「歩ける、話せる、計算できる」という能力は失うことがあるかもしれませんが、「死ぬ」という自分の能力は獲得済みで、生きている限り喪失不可能な能力です。
つまり、人間は生まれながらに最も個性的(比較する個性ではなく)なのです。
これを自覚するというのは、実に当たり前の事柄に目をむけることしか求めていません。
例えば、不安です。
あなたはいつか死ぬ。
でも、いつ死ぬのかわからない。
そんな不安な状態が本来性です。
みんなはそういうけれど、自分ならばどう思うだろうか。
自分に問う在り方も本来性であり、非本来性の自己から見れば孤独や不安がつきまといます。
例えば、いつ終わるかわからない映画を見ているとハラハラしちゃうよね。
こんな風に、自分が死ぬ存在だと自覚することは不安になることでもある…

本来性と責任

本来性を語るときにわかりやすいのが責任を意識すること。
戦争責任が問われる裁判でいえば、被告は自分に非はないと思われてもそのような状態に投げ込まれました。
世人としては「その状態が私にそうさせたのだから、私は悪くない!」と主張できるでしょう。
このように責任をとれない生き方は世人的です。
ただし、責められたから責任を負うのではなくて、責任を負って行動していることは本来性です。
ハンナ・アレント「戦争と責任」から、具体例を紹介していきます。
(ハンナ・アレントはハイデガーと愛人関係にあったと言われています)
仲が良かったということはお互いに思想の影響を受けていそうだよね
例えば第二次世界大戦。
ユダヤ人虐殺でナチス体制に協力しなかった人はどのような人でしょうか?
出世街道を歩むならば必須だったその協力を、どのように拒むことができたのでしょうか。
ハンナ・アレントに言わせれば、それも弱さや不安からだと言います。
えっ、強さじゃなくて弱さから虐殺に加担しなかった!?
世人(非本来性)と本来性の自己が話し合った結果、そのような世人として生きることに、本来性の自己は耐えられないと判断したからです。
  • 世人(非本来性)⇒出世街道
  • 本来性⇒世人の自己に耐えられないので、その社会から離脱する

現存在(人間)は2つの自己を持つことで、それぞれが対話をします。

その場合に、「自分と仲違いせずに生きていくことができないことを見極めたから」ナチス虐殺に加わらなかったのだとハンナ・アレントは語るのです。

本来性の自己はひ弱な存在です。

それゆえに、自分にその責任をとれないと思ったのならば、その社会から離れます。

その選択をできた人は、自分のうちに自己とともに生きなければならないことを知っている人(本来性、責任を自覚)と捉えることができるのです。

多くの戦争犯罪者は「総統の言葉」に従ったとして自分の罪を逃れようとしました。
この場合の戦争犯罪者は世人的な在り方(凡庸な悪)で、本来性の自己がなかったと言えます。
本来性の自己の声と対話することで、「自分が責任をとりたい世人のあり方」でいようとすることも本来性

本来性は一般的ではないこと

死を自覚している存在とは、「自分は死ぬ能力を持っている存在、死に向かう存在」だと自覚している存在です。

つまり、世界の内で存在できるという根源的な存在能力には、自己否定的な部分があります。

具体的に本来性を想像してみましょう。

  • 本来性の自己を優先するありかたは、みんな(世人)から見ればただ逃げた存在とうつるかもしれません。
  • 責任をとる!と言って死刑を選んだとしても、みんなからみれば強がりと言われるかもしれません。
  • 世間一般の目からは不気味に映る存在かもしれません。
  • 周りからみれば理解できないものに、ただただ没頭している人かもしれません。
  • その場に協力しない空気の読めない人に映るかもしれません。
うっ…ダメージが

なぜこのように表現できるかと言えば、世間一般(世人)と同じ尺度に従わせないと、理解不可能だからです。

世人からみた本来性は否定的に映るかもしれません。

理解不能な部分を自分のこととして理解するあり方が死への存在としての本来性です。
他の人から見たら理解できないかもしれないけれど、私はそれを選んでいるってことだね

人は自分から存在を始めることはできない

「本来性」を理解する上で、「被投性(ひとうせい)」についても触れておきます。

被投性⇒自分がある状況に投げ出されていること

私たちはものごころがついた時にはすでに存在しています。

  • 貧乏な家に生まれた
  • 気が付くと贅沢品ばかりが周りにあった
  • 日本にいた
  • システムの中にいた
  • 生きるために働かなくてはいけなかった
  • 戦況が悪いチームにいた

このように、あなたは気がついたときにはある状況下にあります。

世人と被投性の関係性をみてみましょう。

例えば、テレビをつけました。

この投げ込まれた状況下で、テレビでは新製品のスマホが紹介されていました。

新しいの欲しい…
と、ここで「世人」を学んだあなたならば気がつくはず。
あれ、なんで欲しいと思ったんだろう…
あ、みんなが欲しいって言ってるからだ!
私の欲しい気持ちはコントロールできないかもしれません。
しかし、新しいものを欲しがる理由や、買うことでの環境負担、周りの思惑、これらと自己対話ができるようになります。
色が気に入ったから欲しくなったのかも…
スマホって環境的に何か言われていたような…
無知で見落としていることも多そう…
私はこれを買うことで、不安にもなる…
責任は負わなきゃいけないかもしれない…
欲しくなったけど、まだ必要なかったかも…
買うことに責任を負うためにも、様々なことを知ろうとするかもしれません。
ただ、ハイデガーは倫理を説いているわけではありません。
なぜならこれが倫理、これが良いこと、と決まっている在り方は世人的になってしまうからです。
あなたは死ぬ能力を兼ね備えた個性的な人(代理不可能)であることを説いています。
自覚もなく悪い行為をしていたとしたら嫌だな…
そうか、私は操られるのが嫌いなんだ

あなたは気が付いた時には、そこに投げ込まれている存在。

そのときのあなたの状況、あなたの視点はあなたにしかありません。

そこで自分の死、自分の代理不可能性を自覚することが本来性です。

ちなみに、これは人から言われるような自己責任論ではありません。

本来性はあなたにしか理解できないものだからです。

「責任をとれ」と迫られてその責任を感じるのは世人的です。

世人とは|まとめ

世人(ダス・マン)とは哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976)が唱えた概念です。

世人(ダス・マン)⇒日常に埋没するような生き方
人を現存在と呼び、現存在は非本来性(世人)と本来性から成り立っています。
世人は一般的な人を指し、交換可能な人です。
気が付いたときには、世人的であるかもしれません。
しかし、自分が死への存在(代理不可能)であることを自覚すると、自分の本来性が見えてきます。
本来性は一般化すると世人化してしまうので、自分にしか理解できません。
不安はいつも付きまとうかもしれない…
でも、自分らしい生き方がいいな

 

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