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大乗仏教と西洋哲学の共通点

おはようございます。けうです。

 

私は西洋哲学ばかりやっているんだな、ということを倫理の教科書などをみて思い至りました。

日本といえば仏教なんですが、今は西洋と東洋の融合なんていわれています。

区別が難しい。

なので、最近は仏教も勉強しようかな、と思っています。

その手始めに「一冊でわかる!仏教って何?」(三田誠広)を読んだので紹介したいと思います。

大乗仏教は物語

この本では、仏教は物語だ。

みんながこの昔から伝わる大ベストセラーの物語を知らないなんてもったいない!

という趣旨が書かれていました。

 

まさに、私のイメージとは違ったんです。

私の仏教の従来のイメージはこうです。

これはこうしなければいけない。

規則に従わなければいけない。

〇〇しないといけない。

というような堅苦しいイメージでした。

上座部仏教と大乗仏教

でも、それは仏教の初期だけなんですよね。

仏教は上座部仏教と大乗仏教に分かれるようになっています。

なので、〇〇しなければいけないと説かれているのは上座部仏教にあたります。

 

教えに忠実であって、守らなければいけない規則があるのは上座部仏教で、大乗仏教というのは上座部仏教を批判している側面が強く出ています。

上座部仏教のことを批判していうときに小乗仏教といったりします。

維摩経とは

例えば、大乗仏教で有名なのが維摩経です。

維摩は人物名で批判の名人です。

 

例えば、座ってきちんとした姿勢で悟りに至ろうとしている人に対しては、そうやって姿勢にしばられているから悟れないよっていうんです。

寝ころんだ姿でもいいじゃないかって。

 

お布施を貧しい人にももらっている人のところにいけば、どうして金持ちのところにもいかないんだ、というような批判をします。

 

お金をもってそれを配っている人に関しては、あなたは知識を人に分け与えたほうがいいんじゃないかと批判をします。

あなたにとってその方が難しいことだから修行になる、と。

 

維摩は釈迦の弟子たちを次々批判していってやりこめます。

形式主義批判、理論が過剰な難解な宗教批判を維摩はしていました。

この初期の上座部仏教を小乗仏教だといって、大乗仏教をといたんです。

 

この態度って、西洋の哲学のようでもありますよね。

既存のものを疑っていく。

そのスタイルがすでに大乗仏教にあったんです。

空の理論

そして、行き着くところが空の理論です。

すべてが空だ。

私のイメージだと空の理論という難しいのがあって、これに従わないといけないんだなっていうものがあったんです。

 

でも、この空の理論というのは否定ともとれるんですよ。

ある形のあるものに対してただ否定する。

でも、否定って形がないじゃないですか。

例えば、私はよく小論文とかでも批判はよく出てくるんですよ。

これってここの個所が批判できるよねって。

で、その後に言われがちなのが、じゃあその問題に対してどうすればいいの?

という問いなんですよね。

例えば、環境を守るためにリサイクルをしよう!となります。

ところが、リサイクルをする場合、資源回収、特にペットボトルの回収やキャップのふたの回収に関してはそれをするとかえって環境破壊になる、というようなこともあります。

その批判はできるんですよね。

そうしたら、その後にじゃあどうするの?

といわれるんですけど、とりあえずこの批判するカタチのないものにカタチを与えるものとして空の理論を当てはめておけばいいのではないかな、と本を読んでいて思いました。

批判はカタチがないから空の理論と考える。

 

本では空の理論を、私たちがテレビを見て感じるようなものだと説明していました。

私たちがテレビを見たときに、おいしそうなステーキとかパフェが映っていたとします。

そのときに私たちはそれが偽物だと気がついています。

それと同じだと言うんですよね。

世間のものは液晶に映るただの映像のようなものだ、と。

実際にはないんだよ、というのは空の理論でもある、と言われているんです。

 

それでも、実践的になるとするならば、それすら否定もできるかもしれないんですよね。

カタチがないから。

なので、否定にカタチをつけたもの、というような捉え方を私はしてみました。

この論理でいくとまたこれも否定はあるとは思うんですけど、こうやって否定を重ねていく過程に空の理論があるのかな、と思います。

私は哲学も否定の過程とか、考える過程だと思っていて、それと一致するものがあるなと感じました。

空の理論と沈黙

この批判をたくさんしてきている維摩なんですが、最後は批判として何も言わない、というのがあるんです。

最後は沈黙。

このところも、実はソクラテスの問答術の最終形態と似ているところがあるんですよね。

ある本によれば、ソクラテスは言葉をそこまで信用していなくて、最終的には言葉の消滅を目指したといいます。

さらに、ソクラテスは書き言葉として残すことを否定しているんです。

このソクラテスの対話と、空の理論が似ているなと私には感じられました。

 

「クレタ人は嘘つきだ」というパラドックスがあります。

クレタ人である人が、クレタ人が嘘つきだといったら、それがパラドックスになるという話です。

言葉で語ることによってパラドックスが生じてしまう。

なので、最後は沈黙に落ち着く。

ただ、沈黙に落ち着くといっても、語り合っているわけなので、今までの認識とは違った側面をもって、そこから沈黙に至るという過程を踏みます。

私たちは、考え続けることってできないんです。

あるところで、その事柄を考えなくなっている。

その場合に、沈黙に落ち着いてたという表現でもいいのかな、と。

大乗仏教と西洋哲学の共通点

初めから、否定ありきの態度でいいんだよ、と仏教を紹介されていたら、私はその時点で仏教を学んでいたのかもしれないなと感じました。

物語として呼んで、そこで感じるだけでいいんだよ、というように言われたらエンターテイメントとしても楽しめますよね。

 

私にあった、仏教が堅苦しいというイメージは小乗仏教なんです。

大乗仏教と小乗仏教を区別して、さらに大乗仏教の空の理論を意識していく。

そうなると、仏教と西洋哲学とは重なる部分がかなりでてきます。

 

今日は大乗仏教の中のとくに維摩経を簡単にまとめてみました。

では、最後までお聞きいただいてありがとうございました。

 

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