人間とは何でしょうか。
時代とともに人間の定義内容は変わっていきます。
このブログは人間について考えていこうという試みです。
「人間」とはなにか
フーコーは「人間」を主体的な存在だと捉えていましたが、そのような「人間」はいなかったと言いました。
>>生の権力とは
主体的な「人間」像から、社会構造によって支配をうけている人間像になってきたからです。
- 18世紀以前の「人間」⇨主体的、実存主義的
- 19世紀以後の民主国家における人間⇨さまざまなものに支配されている存在、構造主義的
構造主義的(受け身)な人間、というのは実存主義的(能動的)な人間とは180度違います。
しかし、人間はただ操られている存在ではないと、私たちは日々感じています。
主体性があると考えるのは勘違いだと論破することもできますが、それは今の言葉や前提を崩すことによってさらに論破できるのです。
>>ノーカリキュレーションの導入
どこかに実存主義的(主体的)でもなく、構造主義的(受け身的)でもない人間がいるのではないか、と。
このブログは中動態(ちゅうどうたい)という概念を導入して、新たな人間を定義していく試みです。
現在の中動態という概念は國分功一朗さんによって説かれています。
注意書き
今までの概念だと「実存主義的な人間⇨構造主義的な人間」という論の流れはかわりません。
人間を実存主義的な人間ということに対しては論破されています。
それでも構造主義的な人間ではないと思うとき。
そのときに哲学の試みは新たな概念を導入することです。
今までの基盤や言葉では論破できないものに、改めて新しい概念を導入することで新しい定義を作っていくのです。
例えば、ここでの論を犬に例えて想像してみましょう。
- 犬が凶暴で制御できなかったときは、犬というのは人から見て主体的な存在
- 犬がしつけや餌によって制御できるという仕組みを知ることで、犬は人から見て支配できる存在
- 犬を檻の中に押し込めても、噛まれた!抑えられない!学問だけじゃどうすることもできない!となった
この存在とは?
このどうすることもできない、この犬はなんだのだ?ということを考える。
その試みがこのブログ記事です。
人間とは何か|生の権力と中動態との関係
「生の権力」は意識しないと現れてこない権力です。
なぜかと言えば、私たちは普段、監獄にいるとは思っていないからです。
しかし、フーコーは民主国家をパノプティコン(監獄)に例えました。
民主国家にいる私たちは監獄にいるのです。
では、監獄にいるとどのようなことが起こるのかを下の2つの考え方を元に想像してみて下さい。
特徴
- 私たちを資本主義に適合させるように監視
- 私たちは監視者でもあるし、監視される者にもなる
例えば、あなたは率先して「列に並ぼう!」と思ったとします。
この行為だけを分析します。
- 「列に並ぶ!」という意思を持った存在⇨能動的(主体的)
- 「列に並ぶ!」というのは思わせられている⇨受動的(受け身)
あなたは「列に並ぼう!」と考えた時に、主体的でもなく、受け身でもない何かを感じませんでしたか?
この主体でも受け身でもない態度を分析するために中動態という概念を導入します。
中動態とは何か。
まずは中動態の定義から見ていきます。
中動態とは
中動態には2つの側面があります。
能動とも受動とも受け取れない態度と、主語から主語に向かう過程の態度です。
中動態
- 能動的でも受動的でもない態度
- 主語から主語に向かう過程の態度
例えば、
- イヤイヤやる
- 何気なくやる
- 私が私を殴る
- 私が私をどう思っているのか感じる
といったことが中動態にあたります。
中動態の具体例
例えば、イヤイヤやるというのは能動でも受動にも当てはまりません。
次に、何気なくやるという態度。
初めに何かやろうとして、そのことは能動的でもあり、受動的でもあったかもしれません。
けれど、そのことについて動作が主語から主語に向かう行為も中動態と表されます。
- 能動的だった⇨中動態にうつる
- 受動的だった⇨中動態にうつる
例えば、私が私を殴る行為はわたしの中で完結しています。
何か私が私を殴ろうとした衝撃は受けていますが、行為としては主語に向けられています。
他で言えば、私が考えている状態もそれにあたります。
私が私の思考にたいしてぐるぐるしている状態です。
私が考え出すきっかけは能動的でもあり、受動的であったかもしれません。
私の中で考えが巡っている過程を指し示す言葉としては中動態を使います。
中動態は行動と行動の間の過程を表すことができるのです。
中動態は古代ギリシャ語にあった
古代ギリシャ語には中動態がありました。
かえって当時、意思という概念はありませんでした。
古代ギリシャ
- 中動態という概念があった
- 意思という概念はなかった
現代は意思という概念があり、中動態という概念が忘れられている状態。
なので、21世紀の人間像には意思もあり、中動態もあるという2つの概念を導入して人間を見いていこうという試みです。
人間とは何か|生の権力に対して中動態で見ていく
さて、初めの問いに戻ります。
あなたは監獄の中で率先して列に並ぼうとしました。
この行為は能動でしょうか?
監獄という背景を見ずに「列に並ぶ」という行為だけみれば能動的かもしれません。
しかし、あなたは監獄にいます。
監獄では周りの目があなたを見ていて、あなたに模範的な態度を求めてきます。
もし無意識にその目を気にしていたとしたら?
その場合、「列に並ぶ」という態度は中動態になります。
- 「列に並ぶ!」という意思を持った存在⇨能動的(主体的)
- 「列に並ぶ!」というのは思わせられている⇨受動的(受け身)
- 「列に並ぶ!」と決めたけれど、能動的でも受動的でもない⇨中動態
自分から率先して能動的に並んでいるわけでも、受動的にならんでいるわけでもないので、この場合に中動態があてはまります。
中動態の特徴の1つは意思が関係しないことです。
しかし、ここで疑問が浮かびます。
意思がないことは主体性がないことにつながるのでしょうか?
私たちは「意思=主体性」という勘違いをしているのではないか、という疑問です。
この中動態の中に主体性を見出すことができないだろうかと言う視点です。
生の権力と中動態の具体例
生の権力に支配されていると、主体性はなくなってしまうのでしょうか。
ここでは主に、規律権力としての生の権力を話していきます。
民主国家のパノプティコン(監獄)にいる私たちには主体性がないのでしょうか。
しかし、そうとも言い切れないことが実存主義や自由意志からみることができます。
主体的だとされるのは実存主義。
ここでは簡単に、実存主義と中動態との関係、自由意志と中動態との関係をみていきます。
まずは実存主義と中動態。
実存主義と中動態
実存哲学の祖はキルケゴール(1813~1855)だと言われています。
キルケゴールは「あれか、これか」を選択して自分にとっての真理を選択するあり方に主体性を見出しました。
この選択するというあり方は能動的であり、中動態ではありません。
しかし、もっと前の時代をさかのぼると、実存哲学の先駆者はパスカル(1623~1662)なのではないかと言われています。
それは「考える葦」から、人間存在の特異なあり方を説いたからです。
人は宇宙からみれば葦のようなちっぽけな存在だけれど、世界を考えられる存在だと説くことから実存哲学の先駆者だと言われています。
もしそのあり方から主体性をみられるとしたら、中動態においても主体性を見ることができます。
考えている私(中動態の状態)に主体性を見ていくことができるからです。
ただ、現代人は考えることが少なくなってきたともいわれています。
その皮肉的な意味では生の権力に支配されているかもしれません。
考えていないようでいて、人間は考えている…
中動態に主体性を見る見方は、マルクス・ガブリエルが説く自由意志のあり方にも見ることができます。
次に、自由意志と中動態。
自由意志と中動態
自由意志があるのかないのか、という議論は哲学においてよく話されています。
歴史的に見るとショーペンハウアーが最初に、人間には自由意志がない、ということを述べたそうです。
「欲望は満たすことはできるが、欲することはできない」
(マルクス・ガブリエル著書参考)
この一文から読み取ることができます。
しかし、マルクス・ガブリエルはそれに対して否定します。
選択が見える場面において、自由意志はないように感じるかもしれない。
けれど、私たちは無意識的に無数の選択をその中でしていて、その選択は自由意志に由来すると説くのです。
例えば、あなたが列に並ぼうと行動を起こします。
すると、監視社会にいるので、それは受け身的だと指摘されるでしょう。
あなたの自由意志で選択しているのではないと、言われてしまうのです。
しかし、あなたは列に並ぼうとするときに多くの知覚をしています。
多くの知覚例
- 「並んで」という声をきいた
- ルールを思い出した
- 足がその場に歩いて行くように動作を意識した
- お腹空いたなと思った
- 寒いな、と思った
これらは無数に上げることができます。
その中の一つの動作に対して意識した結果、受け身と思われた。
1つの意識をピックアップして「列に並んだ⇨受け身的行動」と認識されたということです。
言葉にしたものに対しては中動態だということができますが、無数の中の一つを言葉にしたにすぎないのです。
それを意識して言うことにも、選択肢があるからです。
私たちはこの無数の動作に対しても、一つの選択をしていると言うことができます。
判断する時に「あれか、これか」とのように選択肢が少なく、言葉によってそれは自由意志がないということができてしまうのです。
ちなみに、サンスクリット語には中動態のみしか存在しない動詞も多いそうです。
「考える」という動詞はそれにあたるといいます。
このような態度において主体性を見ていくのなら、中動態においても主体性が見てとれます。
中動態としての過程の状態に自由意志をみるからです。
考えている私というのは、パスカルからの実存哲学で言えば主体的になります。
「自由意志とは自分自身のイメージに照らして行動する能力のことである」と、マルクス・ガブリエルは定義します。
自分自身のイメージに自分で行動していくことは中動態です。
人間とは何か|生の権力と中動態のまとめ
まとめます。
- 18世紀以前の「人間」⇨主体的、実存主義的
- 19世紀以後の民主国家における人間⇨さまざまなものに支配されている存在、構造主義的
- 21世紀の人間⇨?
このブログでは21世紀の人間を考えてきました。
今までの言葉で人間が定義できないとき、哲学は新しい概念を導入します。
21世紀の人間を見ていくうえで、「中動態」という概念を導入したのです。
そして、監獄にいる私たちは率先して何かをしようとしても、能動的でも受動的でもなく中動態だと述べました。
中動態が使われていたギリシャには「意志」が概念として存在していません。
しかし、その頃はこの中動態の態度そのものに「主体的な自由意志のようなもの」がありました。
今、自由意志や主体性があるということは、昔にもあったということ
実存主義的でもなく、構造主義的でもない人間。
その人間を考えていくうえで、かかせないキーワードが「中動態」です。
参考VTR石田英敬×東浩紀「フーコーで読むコロナ危機」、「責任の生成」國分功一朗著。