哲学者は言葉をよく作る。
だって、ある物事を考えていった結果、それを表す言葉がでてこないから。
一言で書きたいのに、本一冊分の量になってしまう。
ある哲学者が自分なりの言葉を作り出すから、その言葉を理解するのが難しい!
それが哲学を捉えにくくすることでもあるんだけど、だからこそ、哲学は自由であったりする。
今回導入したい言葉は「ノーカリキュレーション」。
カリキュレーションは計算という意味。
その否定としてノーを入れた言葉が「ノーカリキュレーション」。
- カリキュレーション(calculation)⇨計算や推定すること、見積もり、熟慮、打算。(英和辞典参照)
- ノーカリキュレーション⇨計算なしの行動
なぜその言葉を導入したいのかを、論じていきます。
- ノーカリキュレーションの具体例
- ノーカリキュレーションを導入する理由・利点
- 他の言葉ではなくノーカリキュレーションという理由
ノーカリキュレーションの具体例
まずは言葉になじむために、ノーカリキュレーションの具体例をあげていきます。
- 「あ、子どもが階段から落ちそう!危ない!!」 とっさに手が出て子どもを助けた。
- 車が早いスピードをだしていたから、とっさに相手の手を引いた。
- とっさに〇〇した。
このように計算なく動いた動作がノーカリキュレーションです。
脳科学から捉えてみます。
脳に「意識的な意思決定」以前に、「準備電位」が生じていることが実験により判明した。
簡単に言うと、脳で助けようと意識する前に、体が動こうとしていたことがわかったそうです。
身体がとっさに動いて、計算していないこと。
(ただしこの考えには批判もあって、考えて計算したつもりであっても、実はその決定を考える以前に決めていたのであって、人に自由意志はあるの?といった議論にもつながります。)
とっさに〇〇した! というのが、ノーカリキュレーションです。
では、なぜこの言葉を導入するのかを話していきます。
ノーカリキュレーションを導入する理由
倫理学における直観主義の立場に立ってみましょう。
ジョージ・エドワード・ムーア(1873-1958)の言葉を引用します。
「もし私が『善さとは何か』と尋ねられたら、私の答えは、善さとは善さであり、それでおしまいである」(続哲学用語図鑑参照)
なぜこの立場になる必要があるの?と疑問になった方。
そう、この主義に立たなければ、批判がいくらでもできてしまうからです。
例えば、子どもをとっさに助けたとしましょう。
これを直観主義に従えば倫理的だと捉えます。
しかし、この行動は他の言葉で言い換えることができてしまうのです。
「親は子どもを助けないと自分が困るから助けたのであろう」、と。
どんな行動も他の言葉で説明しようとすると、非倫理的になってしまうのです。
つまり、この批判を防ぐために倫理行動の理由を語れなくします。
いくらでも批判ができるので、ある立場にたった場合に使える言葉をノーカリキュレーションにしよう、という提案です。
他にも、ノーカリキュレーションを導入する理由を哲学の有名な実験から見てみます。
ノーカリキュレーションを哲学実験に導入する
ある有名なトロッコ問題。
ある壊れたトロッコが線路を通ります。
そのトロッコは止まれません。
その先には作業員が5人いました。
そのまま行くと5人が死んでしまいますが、私はトロッコを切り替えるレバーを知っています。
レバーを引くと5人は助かります。
けれど、逆の路線にいた1人が死んでしまいます。
私はレバーを引くでしょうか?
ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるのか?という問題です。
ここではまだ倫理が定まっていない状態。
トロッコ問題は倫理を考えるときによく使われる問題です。
しかし、文章を読んで考えている時点で、直観主義によればもう元の倫理ではなくなっているのです。
倫理を考えたとたん、それは非倫理的に変わります。
では、この問題をどのようにすればいいのでしょうか?
直観主義から答えましょう。
それはその立場に立ち合って、私がどう行動したかによって倫理を決めるしかないのです。
私がそのレバーをとっさに引くのか、引かないのか。
このノーカリキュレーションによって、どちらの行動が倫理的かが決まるのです。
もし、ノーカリキュレーションがあると私が知らなければ、「すべて計算から起こっていることになり、そこに善なんてない」という結論にいたってしまいます。
倫理の出所を明確にするために、ノーカリキュレーションという言葉を導入します。
ノーカリキュレーションを使ってみる
トロッコ問題にまで発展させるのは日常的ではありませんね。
身近にしてみます。
あなたは公園で散歩をしていました。
目の前にゴミが落ちています。
拾うでしょうか、通り過ぎるでしょうか。
日常的に考えてみました。
私が意図した、意図しないにもかかわらずゴミを拾ったとしたら、それは私にとって倫理的な行動です。
そして、通り過ぎた時に嫌な気持ちが襲ってきたとしたら、そこに倫理があったということ。
「悪」ではないです。
そこに倫理があった可能性があった、と言うことです。
世間一般的に「ゴミを拾わないから悪」なのではありません。
倫理観を解いてみれば、素通りした時に嫌な気持ちを体験することがある、という結論かもしれません。
ノーカリキュレーションにより、言葉ではなく気持ちを倫理の根拠の一つにできます。
ノーカリキュレーションは他の言葉で代用できないの?
例えば、とっさに〇〇した、ということは直感という言葉でも表すことができます。
直感⇨理性を働かすというより、感覚的にただちにとらえること。
しかし、直感という言葉はすでに多くのイメージを含んでいます。
ある人は直感を第六感のように感じます。
ある人は瞬間的に感じ取ることをいいます。
初めのブラックジョークのように。
「”直感”と書くだけでこの厚み?」
多くのイメージによって、私が伝えたい倫理的な側面の感覚を、この用語を使うことによって限定しているのです。
私は「計算がなく、思慮の結果ではなく」という部分を強調させるための言葉としてノーカリキュレーションを使っています。
誤解を生じさせないためでもあります。
「フッサール 起源への哲学」斎藤慶典著の一説を引用します。
言葉には通常の意味もある以上、誰もがまずはその通常の意味で読むだろう。
そこに何かを理解しようとする以上、そうでしかありえない。
したがって、誤解は避けられない。
誤解されたそれは、大抵の場合、何の変哲もない当たり前のことか、あるいは逆にまったく意味不明のものにしか見えないのだから、この誤解を乗り越えてさらに先に進む人はそう多くはないに違いない。
フッサール起源への哲学 p86
理論を通じて分かり合える相手だと分かれば、造語で理解をしてもらう、という方法を哲学者はとってきました。
ノーカリキュレーションまとめ
ノーカリキュレーションとは、計算なしの行動です。
この概念を導入することによって、私たち一人一人が自分の倫理観について考えることができます。
今とっさにした行動に意識的になれるからです。
倫理を他の言葉で表現しようとすると倫理ではなくなる場合があります。
「善さとは善さ」なのです。
そのために、ノーカリキュレーションという造語を導入します。
ただし、これはあなたの「善さ」であって、一般的に共通するものではないかもしれません。
(何を一般にするか、何を共通にするか、という疑問が浮かぶかもしれません)
ノーカリキュレーションは自分の感覚、自分の先入観、自分の価値、そのようなものを考える助けになります。
ノーカリキュレーションを使って議論をする場合には、相手の「善さ」があって自分の「善さ」があることに注意します。