あなたは愛を考えたことがありますか?
愛は感じること。
その考え方もありますが、そうは言っても言葉で愛を語ることもできるはず。
哲学的に愛を論じていきます。
これは、愛を認識することで、私を知る試み。
まずはそのために哲学者ショーペンハウアーの愛を解説していきます。
彼は愛は同情だと説きました。
説明の初めに、まずは愛と恋を分けていきます。
- 西洋哲学⇒私の意識
- 東洋哲学⇒私と他人の境目があいまい
>>自己愛とは
愛(アガペー)恋(エロス)の区別
愛と恋の現代日本語の意味わけはこちら。
- 愛「いつくしみ合う心、恋、人類愛など。」(広辞苑 参照)
- 恋「①一緒に生活できない人や亡くなった人に強く惹かれて、切なく思うこと。また、そのこころ。 ②植物や土地などに寄せる思慕の情。」(広辞苑)
私たちがそのように考える基礎的な考え方です。(愛に恋も含まれていたりします)
今回追っていくのはショーペンハウアーにおける愛なので、哲学的な概念からみていきます。
- 恋⇒エロス
- 愛⇒アガペー
この恋の意味を考えるときに、哲学者プラトンが述べたエロスの概念までさかのぼります。
ショーペンハウアーはプラトンにかなり影響をうけているからです。
(よく論文に登場します)
ここでは恋をエロスとして、愛はアガペーとして語っていきます。
エロスの意味を見ていきます。
恋(エロス)とは
私たちは生まれる前、すでに永遠不変の実在であるイデアを見ていたとプラトンは言います。
(ショーペンハウアーはイデアを物自体【本物】と似ているものと捉えています。)
愛について語るというときに、自分はすでに愛を知っているような気になっている、その愛が本物(イデア)というイメージ
「人はイデア(永遠不変の実在)を見ていたけれど忘れている状況になっている。」
私たちが美しいものを見たり、聞いたりすると感動するのは、そのかつて見ていたイデアを思い出すからだとプラトンは言います。
「人は自分の知らないものをどうして探求できるのか」というメノンの問いに、ソクラテスは「探求し学ぶと言うことは、魂が生前に得た知識を想起することである」という想起説の思想を提示しています。(「メノン」p140)
そのような感動するものに憧れたり、探求しようとすることをエロスと言います。
プラトンの「パイドロス」ではそのまま翻訳で恋と訳されています。
ちなみに、「恋」(エロス)とはこの世の美しい人を見て、美のイデアを想起することがもっとも当てはまると本で述べられています。
「いない人に惹かれたり切なく思ったりする心境という現代的な意味の恋」とこのエロスは一致させることができます。
そして次に、エロスでない概念として愛はアガペーです。
恋(エロス)との対比としての愛(アガペー)
恋には私があり、その私が欲するものと解釈した場合、その反対で「私が無く、私が欲しないもの」として愛を対置させます。
無私無欲な愛とするアガペーです。
- エロス⇒私が欲するもの
- アガペー⇒私がなく、私が欲しないもの
ではアガペーはどのように解釈すればいいのでしょうか。
「あらゆる愛(アガペー)は同情である。」
このような区分けをしたショーペンハウアーを見ていきます。
ショーペンハウアーから見る愛
ショーペンハウアーは徳を心の持ち方の善と言います。
そして、心の持ち方のこの本来の善は、他人に対する純粋にして無私無欲な愛として表れるものであると言うのです。
心の持ち方の善は人としての人柄として表されます。
そこから、ショーペンハウアーは幸福の条件として人柄を出すのです。
さて、つなぎあわせてみましょう。
なぜこうなるかといえば、感情が「知」になっていない点にあります。
感情を知にしたとたん、それはそのものと異なってしまうことを示しています。
現象学的(現実にあるものから判断)に、私の主観が入る物自体と物自体とは異なってしまうからです。
解説
ここでは「メノン」が表しているように、「知ることとわかることは違う」という理論を例にしてみましょう。
知ることとわかることは違うのですが、この2つはお互いを行き来します。
愛を言葉によって理解して、体験によって理解するというような受動と能動の関係から、「知るとわかる」を行き来しながら知っていくのです。(解釈学的)
例えば、スポーツをまずは実践することで体感し、それを言葉にされることで感覚を掴み、またそれを体験していく、といった捉え方です。
感情の愛を「知ることとわかること」の両方から見ていくことで、愛そのものを捉えていきます。
感情を知るためには様々な言葉を述べて、その行動の中に愛を見ていくことで愛をわかっていくのです。
簡単に特徴を捉えます。
- 知識⇨言葉で知っていく
- 感情⇨言葉の行動でわかっていく
そこから、ショーペンハウアーは幸福に含まれるものとして愛(アガペー)があるとして論を進めていきます。
幸福は満ち足りた状態であり、何かが欠けた状態に同情することが愛だという展開に行きます。
善・同情・人柄・幸福などを語っていくことによって、愛を感じていくよ
ショーペンハウアーの幸福の捉え方
ショーペンハウアーは「幸福について」で、メトロドロスの言葉を借りてこう言います。
「われわれのうちにある幸福の原因は、外界から生ずる幸福の原因よりも大きい」
外界から生ずる幸福の原因とは、お金、富、名誉、などです。
うちにある幸福の原因にアガペー、人柄が入ります。
外界の事物は人のうちにある感情に影響を及ぼすだけです。
外界から生ずる幸福というのは、どんな人にとっても喜ばれるものではありません。
そしてさらに、うちにある幸福の原因を維持するためには苦痛を取り除くべきだと述べます。
「われわれの幸福の九割まではもっぱら健康に基づいている。」(幸福についてp29)
「才知に富む人間は何よりもまず苦痛のないように、痛めつけられることのないように努め、安静と時間の余裕とを求める。」(幸福についてp37)
幸福になるには苦悩を取り除こうとします。
ショーペンハウアーはそこから、同情とアガペーを結びつけます。
だから善や愛や高潔な心が他の人々のためにしてあげられることは、しょせんは他の人々の苦しみを緩和してあげるといったことでしかない。
そういうわけだから、善、愛、高潔な心を動かして善い行為や愛の業をおこなわせることができるのは、つねにただ他人の苦悩に対する認識にほかならず、これは自分の苦悩から出てこそ直かにわかるのであり、他人の苦悩を自分の苦悩と同一視しているものなのである。
そこで、純粋な愛(アガペー)はその本性のうえからいって同情(共苦)であることがここから明らかとなるであろう。
意志と表象としての世界Ⅲ ショーペンハウアー 西尾幹二訳
心が満ち足りるための多くの条件は、苦痛を取り除くことだと述べられています。
その苦痛を認識するのが同情です。
同情と言う用語はネガティブなことに使われます。
「広辞苑⇒同情は他人の感情、特に苦悩・不幸などをその身になって共に感じること。」
ネガティブなことに対して同じになって感じることが同情といえます。
ショーペンハウアーは同情を幸せにする行動だと捉え、愛と同情を同一視します。
愛⇒同情
自分の苦痛を取り除くのと同じく、同情によって他人の苦痛を取り除こうとするからです。
「我々が徹底的に考えることができるのは自分で知っていることだけである」(読書について)
という言葉にあるように、ショーペンハウアーは自分に即して物事を考えています。
ショーペンハウアーは事柄そのものが自分の根本的問題にならなければ、自分で考えることはできないと語っています。
同情においても他人の気持ちを自分のことのように扱うのです。
同情しているときに何が起こっているのかを見ていきます。
同情から愛を考える
同情⇒他人の感情、特に苦悩・不幸などをその身になって共に感じること。(広辞苑)
このように述べましたがさらに詳しく見ていきます。
同情はドイツ語だとSympathieと訳されます。
言葉を区切って理解すると(sym)が共に、(pathie)が苦しむです。
他者の苦しみに対して感情の同一性を指します。
同情とは他者の苦しみに対応して、自らも苦しむような感情を持ちます。
- 同情⇒シンパシー、他者の苦しみに自らも苦しむ
- 共感⇒エンパシー、共に感じる
私が感じたそれは同情なのだろうか、と。
同情と共感を区切ることができるように、まだ区切らなければいけない事象が潜んでいるように思われるからです。
一つの例題をもとに考えてみます。
例えば、仕事の効率が悪いなど、ある人が誰かに嫌みを言われて悲しんでいる場面だとしましょう。
そしてそれは以前、私も同じような嫌みをいわれて悲しんでいたことだったとします。
嫌みを言われた人は悲しんでいるのですが、それを見ての反応を3パターン用意しました。
- 同情する
- 同じ気持ちになれなくて悲しむ
- 喜ぶ
それぞれの場合を見ていきます。
同情も語っていくことでさらに、これが同情か、とわかるようになります。
そうしていくことで愛の理解が深まる
①同情する
同情は他者の苦しみに自らも苦しむことなので、相手と同じ気持ちになったかどうかというのはわかりません。
直観で相手の気持ちを写しとって、私が同じ気持ちになったと感じます。
そして、幸福が欠けた状態を補おうと同情者は相手に愛(アガペー)を向けます。
ただここでの同情では、気持ちがまったく同じではないことはポイントです。
例えば、ニーチェは同情を嫌いました。
同情は気持ちを同じにさせることだと考えたので、相手の固有性を奪うことだと考えたからです。
その場合、誰かに「かわいそうに」といった場合、相手がかわいそうであることが前提になってしまっています。
このように、相手の気持ちが同情する人と違う場合があるのです。
ただこの場合においても、同情者は相手の苦痛を自分のことのように思って取り除こうとします。
この場合に、この行為は愛になります。
例えば、子どもが井戸に落ちそうになったときに同情して助けに向かいます。
相手の気持ちはどうであれ、そのように相手の苦痛をなくそうとした行為は愛と呼ばれます。
それでも苦痛を相手のために取り除こうとした行為が愛
②同じ気持ちになれなくて悲しむ
悲しんでいる人に気持ちを寄せることができるけれど、同じような悲しい気持ちになれない場合があります。
思慮することで、違う気持ちだと気がつく場合です。
このとき、ショーペンハウアーは泣くという行為について話します。
人間は苦痛を感じたからと言ってすぐに泣くわけではなく、「つねに反省することにおいて苦痛を反省しているうちにはじめて泣き出すのである」とあります。
引用します。
最初は自分が直に感じた苦痛がいわば二重の回り道を通っていま一度自分に知覚されてくる
ーつまり最初に自分が直かに感じた苦痛が他人の苦痛として表象され、他人の苦痛として同情されるのであるが、そのうちそれが突如としてもう一度直かに自分自身の苦痛として知覚されてくるー
といったようなこの奇妙な錯綜した気分のなかで、彼のうちなる自然は、泣くというあの不思議な肉体的痙攣によって、自分自身に安らぎを与えるに至るのである。 意志と表象としての世界Ⅲ ショーペンハウアー 西尾幹二 訳
ショーペンハウアーはこれも同情だといいます。
直観で感じるのも同情、思慮によって内省するのも同情です。
人を愛し同情する能力と想像力によって泣くことが引き起こされる、と述べています。
解釈学的に「知ることとわかること」を繰り返すように気持ちを内省します。
自分と他人との区別をすることが少ないと同情しやすいのですが、思慮することによる同情もあるとショーペンハウアーは述べるのです。
では、反対に自分と他人の区別が大きい場合はどうなるのでしょうか。
その一つに、自分と他人を区別して他人の苦悩に喜びを見出す場合を見てみます。
③喜ぶ
不幸な人をみます。
その時に同情ではなく、喜ぶ。
愉快、楽しい、歓喜を感じたとき、ここにエゴイズム(利己心)がでてくるとショーペンハウアーは言います。
この楽しさが目的化する場合、善と反対概念の悪だと述べられています。
〇〇でない、というものを理解することによって〇〇を知っていきます。
自分が理解しやすい言葉から、「知るとわかる」を繰り返します。
- 同情⇒愛
- 同情できなくて涙⇒愛
- 相手を笑う⇒エゴイズム
同情を理解することで愛を理解する
ショーペンハウアーの愛とは、まとめ
まずは愛と恋を分けます。
- 恋⇒エロス
- 愛⇒アガペー
分けることで、まずショーペンハウアーの愛は恋とは違うものだと考えます。
恋には私があり、その私が欲するものと解釈した場合、その反対で私が無く、私が欲しないものとして無私無欲の愛を考えていきました。
- エロス⇒私がある
- アガペー⇒無私無欲
無視無欲の愛はアガペーです。
さらにショーペンハウアーは愛を知ではないものとしてとらえました。
なので、愛を連想させるものをどんどん述べていって、愛を深めていきます。
徳≒善≒無視無欲な愛≒人柄≒幸福≒同情
定義はしません。
これらの現象を語ることによって、愛を深めていくのです。
ショーペンハウアーの「愛とは同情である」をピックアップして考察しました。
そこから、愛における個人差を映し出します。
直観においてわかる同情や、内省によって泣く行為が生じる同情を見てきました。
「知ることとわかること」を繰り返すことによって、自分の愛を知っていきます。