アフォリズムとは簡潔鋭利な評言のことをいいます。(広辞苑 参照)
格言や警句、金言のことを表し、主に短くまとめた言葉に使われます。
例えば、「神は死んだ」「脱魔術化」「人間は一本の葦である」などがそれにあたります。
伝えたい要点を凝縮させます。
短く、それだけで何か直観を与えてくれる点では詩と似ているでしょう。
しかし、アフォリズムと詩には違いがあります。
違いを意識することで、哲学で多用されるアフォリズムにおける問題点が浮き彫りになります。
では、両者の違いから見ていきましょう。
アフォリズムの使われ方と欠点
アフォリズムは有名な人物が述べた言葉が端的にまとめられています。
その言葉だけで印象的です。
しかし、欠点があります。
それは、筆者が述べることとは別のことが伝わってしまうのです。
身体で説明します。
ある人が膝を負傷して病院に行きました。
そして、お医者さんによって別のことを言われたとします。
②「姿勢を治しましょう」
この場合、どちらのお医者さんが正しいでしょうか。
①の膝を手術した場合。
一次的にはすっかり良くなりましたが、また膝を負傷してしまいました。
②の姿勢を治した場合。
膝が治るのに時間はかかりましたが、同時に膝の負傷が少なくなりました。
部分的に捉えるのか、全体として捉えるのかの違いです。
言葉は自分の解釈で決まるのですが、その捉え方が異なります。
短期的に役立つのか、長期的に役立つのかという違いを見ることもできます。
自分の捉え方が言葉に対して出来るのですが、アフォリズムではそれを説いた人がいます。
解釈の違いは誤解を多く含むのです。
例えば、ニーチェの言った「神は死んだ」はそのまま神様が死んだわけではありません。
マックスウェーバーが言った「脱魔術化」も魔法がとけたわけではないのです。
もっと現代的に表されるとわかりやすいかもしれません。
ある政治家がこんな発言をしていたことが批判を浴びた。
「こんな発言」に注目します。
ニュースではアフォリズム的に言葉を切り取って伝えられた場合、その本人が言っていた意味と大きく解釈が異なる場合があります。
反対の意味にすらなるのです。
文章を短くまとめたり、一部分だけを見ることは誤解を生みます。
では、詩はどうなのでしょうか。
詩の使われ方
詩は文学の一部門です。(広辞苑)
哲学書や自己啓発本でも、章の初めに詩が引用されていることがあります。
その目的としては、詩によって何かを感じ取ってもらうこと。
ショーペンハウアーの本から引用します。
詩もまた疑いもなくイデアを明白化すること、意志の客体化のある段階を明白化することを目ざしていて、詩人の心がなまなましく鮮明にとらえたイデアを、詩を聴く者にも伝えるところに詩の目ざす狙いがあることは、われわれには疑いようがないことのように思う。
ーイデアはその本質からいっても直観的である。
ー詩を聴く者にこの人生のイデアをありありとこころに直観的に映じさせようという目的があるのである。
「意志と表象としての世界Ⅱ」p172ショーペンハウアー 西尾幹二訳
ショーペンハウアーは詩を芸術品と見ています。
芸術品は各人の心に語りかけるのです。
何かを直観することに、その芸術品の価値があります。
イデアは、直観でしか感じられないとショーペンハウアーは言います。
自分の中で直観したその何か(イデア)を突きとめたいと思う。
詩はそんな気持ちを人にかきたてるのです。
本の初めに詩を引用しているとしたら、始めは詩を味わいたくなるかもしれません。
そして直観したものから、本の内容との比較という楽しみ方も持てます。
さらに、なぜこの詩を引用したのか。
引用した背景には何があって、この本を読めばその回答が得られるのか。
本の内容自体に関心がなかった場合でも、詩から関心が引き起こされて問いが持てるのかもしれません。
自分の関心ごととして本を読み込めるということです。
では、アフォリズムと比較してみましょう。
アフォリズムと詩との違い
アフォリズムも詩も各人に直観を与えます。
それがなければ印象がなく疑問や問いが持てないので、対象に興味を持たなかったかもしれません。
問いや疑問を持たせる効果が、ぱっと目を止める短い文章にあります。
短い文章の背後には大きな問いのうねりが存在していて、それは多様に解釈できるような事柄です。
詩の場合はそのまま直観を楽しめます。
そして、アフォリズムも楽しめるのですが、その文章は長い文脈のまとめという注意点を述べました。
アフォリズム⇨間接的にまとめられた表現
そして、さらなる問題点も上げていきます。
表現のさらなる問題点
ではなぜアフォリズムと詩の違いを知る必要があるのでしょうか。
それは、最近では直観さえ操作されてしまう可能性があるからです。
元からの意図を知ることで、私たちの誤解を防ぎます。
さらにそれは、アフォリズムと詩の違いを超えて、表現一つ一つの意図をみていくことに繋がります。
例えば、色覚多様性(色の見え方が異なる)の画像での表現にそれがでてきます。
色の見え方が多様な人ではこのような感じに見える、とくすんだ緑色ピーマンの写真を提示されたとします。
しかし、実際にはそのとおりではないのです。
見る人がきつい印象をおぼえないように、意識的に色が操作されています。
くすんだ緑色を赤色で表現してもいいのです。
なぜ印象的にしないかと言えば、ネガティブに受け止められないように操作しています。
これは配慮から意識的に直観が操作されます。
しかし、逆の場合もあるのです。
編集によって、ある部分を際立たせることによって意図的にそのものの良い直観や印象をもたせる場合。
商業目的だったり、詐欺目的だったりという自体もありえます。
私たちは直観を信じやすい。
そのままの直観を信じた場合、その製作者に私たちは操作されているということです。
詩の場合ならば、本物を感じさせることを目的にするので、そのような操作を意図しません。
逆に言えば、制作側がどのような意図を持っているのかということも考察できます。
表現による再解釈性
さらに言えば、言葉を何度も再解釈するのは哲学の特徴です。
例えば、イデアという言葉一つは、何度も解釈できます。
「一般的なイデア」
「プラトンのイデア」
「ショーペンハウアーのイデア」
誰にとっての言葉なのか、他の人はどんな印象をうけとっているのか。
使い方は正しいのか、その言葉は日常に関与するのか、などです。
哲学のアフォリズムはよく誤解されます。
哲学書は長い場合が多いので、その前後を把握しなければ意味が掴めません。
哲学はその営みにおいて根源から疑う態度を必要とします。
文脈を無視することは誤読になりうるのです。
アフォリズムと詩の違いに注目して、その違いを知る。
そして、その応用が他の表現にたいしても考えられます。
アフォリズムとはーまとめ
アフォリズムとは簡潔鋭利な言評、格言です。 長い文章を短くまとめます。
詩と同じく直観を人々に与えます。 しかし、その直観は間違えられる場合があるのです。
詩は表現者が感じ取ったイデアを表しますが、アフォリズムは表現者または第三者からの切り取りが行われます。
その切り取りから、直観が操作されえます。
操作によって、アフォリズム的にまとめられるので元の意味とは違って現れるのです。
情報が増え、ますますこのアフォリズムの誤読に似た現象が起きます。
そのときに、アフォリズムの欠点を知ること、さらには表現の意図を知ることは考えの多様性に繋がります。