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「ほんとうの愛」とは?-教祖を経験した苫野一徳さんから見る「愛」

おはようございます。けうです。

 

苫野一徳さんの「愛」を読んでいます。

>>愛

以前、「日本哲学の最前線」で紹介されていた本を手にしてみました。
>>愛は疑問を含むこと

 

私は愛がよくわかっていません。

なので、本を読みつつ一緒に愛を探求したいなと思ったのです。

そこには、なぜ私が愛についてよくわかっていないかのヒントをくれるものもありました。

愛とは何か。

それを問うために、まずは愛ではないことから見ていきます。

 

苫野さんはかつて人類愛をかかげる教祖をしていたといいます。

そのころ、愛の定義をこのように述べたそうです。

「今存在しているすべての人、かつて存在したすべての人、そしてまた、これから存在するすべての人、そのだれ一人かけても、自分は決して存在し得ないのだということを、絶対的に知ること」

 

愛に恍惚していて、これが「人類愛」だという真理に目覚めた人でなければ、教祖は出来ないと苫野さんは考えていました。

けれど、うつ病になり、そのことに疑問を抱くようになって教祖をやめたと言います。

 

なぜ疑問を抱くようになったのか。

その理由を哲学ゆえだといいます。

「しかし哲学とは、本来、まず何をおいても自らの確信を確かめ直す営みである。自身の信念や思想を問い直し、それが真に普遍性を持ちうるものであるか吟味する」

私が確信している愛は本当に愛だろうか。

哲学をすることによって、その確信がゆらいでいったのです。

そこから、苫野さんは区分けをすることにします。

哲学は分けることでもあります。

例えば、愛を愛と感じることと愛ではない「こと、もの」に分けていきます。

このように、普遍性を追っていきます。

「哲学は、自身の信念や思想の『確かめ可能性』を絶えず吟味するものでなければならないのだ」

愛をわける。

まず、今まで思っていた愛の否定から入ります。

「人類愛」とは、世界の心理などではさらさらなく、わたし自身の孤独の苦悩を打ち消したい欲によってつくり上げられた幻想だった。

このように、まずは自身が抱いていた愛を否定して、本当の「愛」を考えていきます。

 

愛の否定に関して、4つの区分けをします。

愛ではない事の4つ。

①素朴なロマン主義
②愛の理想理念化
③ロマンに敗れた理想主義
④生物学的な愛

これらは一部に愛の要素を含みつつも、これが愛だと言えない例です。

素朴なロマン主義

孤独な私、愛されないわたし、承認されない私。

この思いの反動から、人類は本来、絶対的に愛し合っている!

このように思い込むことが反動的ロマンとしての愛の思想です。

苦しみに満ちた世界なんて、消えてしまえばいい。

このような反動から生まれた愛、すべてを包み込むと恍惚に浸れるような愛が素朴なロマン主義に基づく愛です。

この素朴なロマン主義に似ているのが次に紹介する愛の理想理念化です。

愛の理想理念化

愛は自分のエゴイズムであるという苦悩を味わう。

例えば、自分の好きな人を失ったときに、自分が苦しいのに気が付く。

そして、愛などただのエゴイズムだったのだと気が付く。

そのエゴイズムではないものが愛なのだ。

だから、エゴイズムとは隔離した愛があるはずだ!と思い込む。

その思想が愛の理想理念化です。

これも、素朴なロマン主義同様に、論理的に説明できるものではなくて、理想から愛を語っています。

ロマンに敗れたニヒリズム

これはエゴイズムとは何かを考えた思想です。

私には愛していた恋人がいたけれど、私の愛の表現は閉じ込めることだった。

一匹の小鳥を鳥かごにいれて、私だけが世話をして、私だけが見られるような状態にする。小鳥を私自身に取り込んでいく行為。

これが愛なのだ、と。

愛は美しいものではなくて、エゴイズムが特化している愛であり、自己犠牲的な愛など存在しないと考える思想です。

これも理念から来ている愛です。

 

まずは理念からくる愛のこれらのカタチを苫野さんは否定します。

 

次にニーチェが語る愛を参照にしていきます。

ニーチェの愛は生物学的です。

生物学的な愛

キリスト教がとく人類愛を否定して、動物として愛を語ります。

「愛とは、ルサンチマン人間によって都合よく重い描かれた非利己的なものではない。その本質は、両性間の戦いを通じた『子作り』にある。」

子作りというのは、一つの象徴であり比喩であり、子作りといわないならば『創造』であると述べます。

人間を動物として見た場合の愛を語ります。

ただ、筆者はこれに対して、「ニーチェはキリスト教を批判するあまり、さきほど上げた理念を一切とりいれていない」と述べます。

なので、そもそも言われていた愛の要素を入れていない点で、この愛をそのまま愛だと考えることはできない、と苫野さんは語ります。

 

本では、このように愛を分割していきます。

この理念ではない。

この考え方では、愛について足りない気がする。

でも、これによっても一部の愛を語ることが出来る。

私たちが言葉を作りだすとき、例えば『性愛』『恋愛』『愛』という時、何か共通した要素を含みつつ、なぜわたしたちはこれらを包括しているように使っているのか。

なぜその言葉が使えているのか、ということも見ています。

さまざまな愛の見方を検討していくのです。

そうなってくると、愛が複雑だとわかりました。

では、なぜそもそもそのような取り組みを哲学者はしているのか?

これも論理展開してみていきます。

名言における愛を探求したくなる理由

各哲学者や小説家からの引用になります。

「しかしわたしたちは、確かに愛のうちにおいてこそ、この生の意味をより深く知ることができるのだ。」

愛による生の意味を知る。

 

「この人を愛することにおいて、わたしはわたしの人生を肯定することができる。」

生を肯定する。

 

「いかなる場合にも、愛を知る人は、各瞬間、自分が何のために生きているかを知っている人である」

自分の生きる意味を知る。

 

このような名言ともいえるセリフを聞いたときに、私たちの多くは直感で共感します。

そのような特質も愛は持っています。

なので、愛を区分けていくこと、愛でないものを否定したり、議論していくことを哲学者はどうしてもしてしまうのだと私は思いました。

愛の理念性。

「愛は、一度わたしたちの理性を通して吟味されずにはいられない、いわば理念的情念なのだ。あるいはこうも言える。愛とは、情念であると同時に一つの理念でもある、と。」

私も苫野さんの愛についての考察を読みつつ、自分で愛を考えていきたいと思っています。

では、お聞きいただいてありがとうございました。

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