「現代に生きる人間の倫理」
第5節「人間への新たな問い」
2.ソシュールと言語学
>>1.フロイトと無意識の発見
「動物のうちで人間だけがロゴスをもつ」(アリストテレス)とみる理性的人間観では、理性(ロゴス)の在り方は、言葉(ロゴス)の動きと不可分である。人間はみずからを、言葉を用いて考え、世界に働きかける主体と自覚してきた。しかし、…
(高校倫理p172)
「言語は名前の一覧表ではない」
(哲学用語図鑑p235)
- ソシュールと言語学
- ソシュールと構造主義
参考文献 「コトバの謎解き ソシュール入門」町田健、「哲学用語図鑑」田中正人、斎藤哲也
ソシュールと言語学
ソシュールといえば、「ラング」と「パロール」が有名です。
ラングとパロール
- ラング⇒ある言語の文法や規則の体系
例えば、「日本語」とか「フランス語」のような個別の言語のこと - パロール⇒個々の発話行為
同じラングでもそれを使う人によって雑多な現れ方をした言語。
例えば、東京では「だめだ」を大阪では「あかん」というような違い - ランガージュ⇒ラングとパロールを合わせた言語の全体像のこと
なぜソシュールがラングとパロールを区別したのかというと、言語学が分析する対象を決めたかったからです。
例えば、ある人が口ごもりながら「おは〇〇〇〇います」と発話したとします。(パロール)
この言葉を聞いた日本人の多くは〇を補って、この人は「おはようございます」とあいさつをしたのだと解釈。
なぜ解釈ができるのかといえば、それは日本語というラング(言語の体系)に、その人がいるからです。
もしフランス語を話す人だとしたら、この〇は他の言葉で補って解釈するしかありません。
ソシュールはまずラングを分析しようと決めました。
つまりラングというのは、法律とか政治などと同じ社会的な制度の一つで、ある社会に属している人びとなら受け入れなければならないものだということです。
(ソシュール入門p1069、〈kindle表記〉)
シニフィアン(能記)とシニフィエ(所記)
ソシュールにとって、ラングの一番の要素は単語でした。
単語は音素列と意味が結びついた「言語記号」だとソシュールは考えました。
記号(シーニュ)
- シニフィアン(能記)
音素列、文字や音声 - シニフィエ(所記)
意味、文字や音声から得るイメージ
例えば、リンゴがあるとしてringoという音素列はシニフィアン(能記)。
シニフィエ(所記)は一つに下のイメージです。
例えば、「おは〇〇〇〇います」というパロールを「おはようございます」という能記だとして分析しているんだね
言語の恣意性っていうのは、言語って適当だよね、ってこと
言語の恣意性
言語の恣意性を例で説明していきます。
例えば、犬。
犬のシニフィアン(能記)はinu。
ですが、inuということには必然性はありません。
もし何か少しでも決まりがあるとしたら、wanwan(ワンワン)とかkyankyan(キャンキャン)という音素列になっていたかもしれません。
wanwanではなくinuという音素列なのは、たまたまそうなったのだ、としか言えないのです。
(ただトイレ記号だとか、ドアのノブだとか、意図を持つサインのことをソシュールはシグニファイアと述べたよ)
実際、人間以外の動物のコトバには単語などはないのでして、伝えたい事柄をいろいろな鳴き声で区別するようになっているようです。つまり、単語を使わないで文だけで事柄を表しているということなのです。
(ソシュール入門p1426)
比較言語学そのものの批判にもなっていたんだね
ソシュールと構造主義
ソシュールの言語学の目的は、人間のコトバとはどんなものなのか、コトバを使って意味が伝達できるのはどうしてなのか、ということを学問的に明らかにすることでした。
そして、それを研究対象にする
構造主義
ソシュールは、「ラングの中には差異しかない」と、かなり断定的に述べています。
(ソシュール入門p2287)
ここで、構造主義の個人という図から、ソシュールの考え方を見てみます。
一般的な世界観では、世界は一つ一つの要素(個人、名など)が集まってできていると考えられてきました。
しかしソシュールは、世界は「右・左」のように、他のコトバとの差異で個人(名)が成り立っていると考えたのです。
サルトルの実存主義では個人の主体的行動(人は意志して〇〇になる)を説いたけど、構造主義ではその意志は主体性ではなく社会や文化に規定されている(人は〇〇になってしまっている)と考える
- 体系⇒要素の価値を決定する
- 構造⇒ある価値をもっている要素が並んでどんな意味や働きをするのかをきめる
どんな体系があるのかをいつも念頭に置きながら、コトバの要素の性質をとらえるという方法は、ソシュール以降現代言語学に深く浸透しました。ソシュールが現代言語学の創始者だと言われる第一の理由は、コトバに体系性があるという彼の指摘にあるのだ、と言っても過言ではないでしょう。
(ソシュール入門p2318)