ソシュールと言語学

ソシュールと言語学|高校倫理1章5節2

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
(高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第5節「人間への新たな問い」
2.ソシュールと言語学
を扱っていきます。
前回から5節「人間への新たな問い」に入りました。
>>1.フロイトと無意識の発見
「動物のうちで人間だけがロゴスをもつ」(アリストテレス)とみる理性的人間観では、理性(ロゴス)の在り方は、言葉(ロゴス)の動きと不可分である。
人間はみずからを、言葉を用いて考え、世界に働きかける主体と自覚してきた。
しかし、…
(高校倫理p172)
言葉は理性という歴史があり、言葉はそれまでの思想によってかたちづくられてきました。
例えば、リンゴそのものにリンゴのラベルを張り付ける、という認識の仕方です。(認識が対象に従う)
しかし、カントのコペルニクス的転回の後、「対象は認識に従う」という認識方法になりました。
そして、このことを言語にも当てはめたのが近代言語学の祖ソシュール(1857-1913)です。
「言語は名前の一覧表ではない」
(哲学用語図鑑p235)
ソシュールは元々は比較言語学(起源が同じだとわかっているいろいろな言語を比較することで、それらの共通の起源である祖語の特徴を推定する学問)を研究していました。
しかし、ソシュールは歴史ではなくコトバ一般の性質が知りたい、という動機があったようです。
10代で「言語学」の論文が話題になったのですが、当時はソシュールのような考え方は学界では批判されていました。
ソシュールは言語学の考え方を本にすることはなく、大学の講義だけで自分の研究を発表。
聞いていたのは生徒だけ。
その生徒たちがこの講義はすごいと感銘をうけて、ノートをまとめたものを出版。
それによってソシュールは言語学の祖といわれるほどに有名になったのでした。
ソシュールの考え方を紹介していきます。
ブログ内容
  • ソシュールと言語学
  • ソシュールと構造主義

参考文献 「コトバの謎解き ソシュール入門」町田健、「哲学用語図鑑」田中正人、斎藤哲也

ソシュールと言語学

ソシュールといえば、「ラング」と「パロール」が有名です。

ラングとパロール

  • ラング⇒ある言語の文法や規則の体系
    例えば、「日本語」とか「フランス語」のような個別の言語のこと
  • パロール⇒個々の発話行為
    同じラングでもそれを使う人によって雑多な現れ方をした言語。
    例えば、東京では「だめだ」を大阪では「あかん」というような違い
  • ランガージュ⇒ラングとパロールを合わせた言語の全体像のこと

なぜソシュールがラングとパロールを区別したのかというと、言語学が分析する対象を決めたかったからです。

例えば、ある人が口ごもりながら「おは〇〇〇〇います」と発話したとします。(パロール)

この言葉を聞いた日本人の多くは〇を補って、この人は「おはようございます」とあいさつをしたのだと解釈。

なぜ解釈ができるのかといえば、それは日本語というラング(言語の体系)に、その人がいるからです。

もしフランス語を話す人だとしたら、この〇は他の言葉で補って解釈するしかありません。

ソシュールはまずラングを分析しようと決めました。

例えば、犬がわんわんと吠えていても私たちは犬のラングが分からないから、パロール(発話)だけだと分析不可能だよね
つまりラングというのは、法律とか政治などと同じ社会的な制度の一つで、ある社会に属している人びとなら受け入れなければならないものだということです。
(ソシュール入門p1069、〈kindle表記〉)
確かに、おはようございます、としか受け入れられないかも
パロールは言語学の研究対象ではない、とソシュールが述べているので、この後はラングを中心に進みます
(ただし、「パロールは話し手が意志的に頭を使って自分の考えを表明したものだともソシュールは言っています」(ソシュール入門p1196)。
抽象的な事柄と実際に起きている現象を関係づけるための何らかの規則があるとしたら、それはパロールを元にして言語学が研究すべき対象になる、と本では述べられています。)

シニフィアン(能記)とシニフィエ(所記)

ソシュールにとって、ラングの一番の要素は単語でした。

単語は音素列と意味が結びついた「言語記号」だとソシュールは考えました。

記号(シーニュ)

  • シニフィアン(能記)
    音素列、文字や音声
  • シニフィエ(所記)
    意味、文字や音声から得るイメージ

例えば、リンゴがあるとしてringoという音素列はシニフィアン(能記)。

シニフィエ(所記)は一つに下のイメージです。

パロールとシニフィアン(能記)って一見すると〈音〉だから同じ?と混乱するんだけど、能記は単語を分析したもの。
例えば、「おは〇〇〇〇います」というパロールを「おはようございます」という能記だとして分析しているんだね
ソシュールが能記と所記を分けたことにより、明らかになってきたことがあります。
それが言語の恣意性です。
恣意的っていうのは、場当たり的とか、自分勝手とかいう意味。
言語の恣意性っていうのは、言語って適当だよね、ってこと

言語の恣意性

言語の恣意性を例で説明していきます。

例えば、犬。

犬のシニフィアン(能記)はinu。

ですが、inuということには必然性はありません。

もし何か少しでも決まりがあるとしたら、wanwan(ワンワン)とかkyankyan(キャンキャン)という音素列になっていたかもしれません。

wanwanではなくinuという音素列なのは、たまたまそうなったのだ、としか言えないのです。

ドックというのもたまたまだよね。
(ただトイレ記号だとか、ドアのノブだとか、意図を持つサインのことをソシュールはシグニファイアと述べたよ)
例えば、この恣意性はよくチョウで説明されます。
日本だとチョウと蛾は区別されているのですが、フランスではチョウと蛾の区別はなくパピヨンと呼ばれています。
国ごとにいろいろなものの区別が異なっているのは、言語に恣意性があるからです。
そして、言語が恣意的に結びついているからこそ言葉の変化が生じる、とソシュールは考えました。
例えば、「あした」という単語は、昔と今で音素列は変わっていないのですが、意味は「朝」から「今日の次の日」という具合に変わっているのです。
「ら」抜き言葉があるように、逆に音素列が変わることもある
変化というのはたまたま起こったもの。
かつ、ソシュールはこのような変化は人間に特有なものだと考えました。
実際、人間以外の動物のコトバには単語などはないのでして、伝えたい事柄をいろいろな鳴き声で区別するようになっているようです。
つまり、単語を使わないで文だけで事柄を表しているということなのです。
(ソシュール入門p1426)
人間にはどんな新しい事柄でも伝達できるようなコトバの仕組みが必要だったのです。
恣意性があるからこそ、さまざまな単語を組み合わせて新しい事柄を伝えることができる、と解釈ができます。
ソシュールは言語の恣意性があるから、、使われているコトバを分析すべきだと主張したよ。
比較言語学そのものの批判にもなっていたんだね

ソシュールと構造主義

ソシュールの言語学の目的は、人間のコトバとはどんなものなのか、コトバを使って意味が伝達できるのはどうしてなのか、ということを学問的に明らかにすることでした。

でも、言語の恣意性からすれば、法則なんてないってなりそう
ソシュールは「言語学でやるべきなのは、与えられた音素列をもとにして、そこからどんな単語があるのかを、誰がやっても同じになるようなやり方で引き出す」ことだと考えました。
例えば、「のぞみ52号」と聞いて、それは日時や乗員や乗客や車両が違うのに同じ意味を表すのだと、みんなが理解するようなもの。
他にも、「桜の花」と「職場の花」と聞いて「美しい、人を惹きつける」という共通の意味を、みんなが理解するようなものです。
ソシュールは「(意味の)同一性が大きく損なわれることがない」程度の共通性があればいいいと述べています。(ソシュール入門p2163)
人はその言葉がぴったりだというのをラングから探し出して当てはめているんだね。
そして、それを研究対象にする
そこから導き出される法則性。
単語の意味が決まるしくみとは、「他の単語の意味と『違う』という性質から導き出されるのだ」と、ソシュールは考えました。(ソシュール入門p2206)

構造主義

ソシュールは、「ラングの中には差異しかない」と、かなり断定的に述べています。
(ソシュール入門p2287)

ここで、構造主義の個人という図から、ソシュールの考え方を見てみます。

構造主義

一般的な世界観では、世界は一つ一つの要素(個人、名など)が集まってできていると考えられてきました。

しかしソシュールは、世界は「右・左」のように、他のコトバとの差異で個人(名)が成り立っていると考えたのです。

日本語ではチョウと蛾がわけられているからそうイメージしているし、フランスでは分けられていないから一つのパピヨンだとイメージしている
構造主義は実存主義と比較するとわかりやすいかも。
サルトルの実存主義では個人の主体的行動(人は意志して〇〇になる)を説いたけど、構造主義ではその意志は主体性ではなく社会や文化に規定されている(人は〇〇になってしまっている)と考える
ソシュールは構造というよりも体系で考えていました。
  • 体系⇒要素の価値を決定する
  • 構造⇒ある価値をもっている要素が並んでどんな意味や働きをするのかをきめる
例えば、日本語の体系では語尾に「〇〇だね」(聞き手が内容を知っていると判断される事柄)と「〇〇だよ」(聞き手が内容を知らないと判断される事柄)という終助詞があります。
一方、英語には終助詞がなく、相手によって語尾を変えるという事をしません。
日本語には相手への価値判断があるんだね
どんな体系があるのかをいつも念頭に置きながら、コトバの要素の性質をとらえるという方法は、ソシュール以降現代言語学に深く浸透しました。
ソシュールが現代言語学の創始者だと言われる第一の理由は、コトバに体系性があるという彼の指摘にあるのだ、と言っても過言ではないでしょう。
(ソシュール入門p2318)
また、構造ももちろん必要です。
例えば、日本語で「たこ焼き」といえば小麦粉にタコが入っているものをイメージし、「焼きタコ」だと焼かれているタコをイメージするというような並びの構造があります。
ソシュールの学説は「構造主義」と呼ばれるのですが、この場合の「構造」というのは、体系と構造の両方を指すものとして使われているようです。
ソシュールの言語学をやりました。
次回は言語哲学について取り扱います。
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