ミルと功利主義

ミルと功利主義の修正|高校倫理1章4節3

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第4節「社会と個人」
3.ミルと功利主義の修正
を扱っていきます。
前回は、ベンサムの功利主義(「最大多数の最大幸福」)を取り扱いました。
「人間とは快楽を求め、苦痛を避ける生き物」であり、「人の快楽に結びつく行動は善」、「人の苦痛に結びつく行為は悪」だとベンサムは定義。
功利主義⇒善悪の判断基準を、快をもたらすかどうかに求める考え方。
ベンサムは「最大多数の最大幸福」を規準とした。
さらにその幸福は快楽計算によって科学のように示すことができるとベンサムは考えていました。
功利主義は行為の結果を重視するから「結果説」と呼ばれるよ。
(ちなみにカントの義務論のような行為の動機を重視する立場を「動機説」と呼ぶ)
今回扱うミル(1806-1873)は、幼いころからベンサム主義でした。
ベンサムの考え方を「功利主義」と呼ぶきっかけになったのも、ミルが活動場でそう呼んだからだと言われています。
しかし、ミルはベンサム流の量的功利主義に疑問を抱くようになりました。
そして、自ら功利主義を修正して質的功利主義を唱えたのです。
満足した豚であるよりも、不満足な人間であるほうがよく、満足した愚か者よりも、不満足なソクラテスであるほうがよい
「教科書p156 ミルの言葉」
なぜミルは質的功利主義を唱えるようになったのでしょうか。
ブログ内容
  • ミルと精神の危機
  • ミルと質的功利主義

参考文献 「J・S・ミル 自由を探求した思想家」(関口正司)「自由論」(ミル、山岡洋一訳)社会学史(大澤真幸)

ミルと精神の危機

ミル(1806-1873)がなぜベンサム主義だったのかというと、ミルの父親がベンサムと友達で、ベンサム主義だったからです。

父親はミルを自ら教育しました。

博識で厳格な父親の元、ミルはベンサム主義を徹底的に教えこまれたのです。

父親は理性を重視する人で、特に勉強に関してはミルに厳しくて強い叱咤をしたらしい

ミルは20歳になるまでベンサムの思想を広めようと運動をしていました。

ベンサムの思想は19世紀の経済的不平等や産業革命にかかせない思想だったからです。

ベンサムの功利主義は、人々の幸福度が高い社会を理想とした。
絶対王政よりも民主社会の方が幸福度が高いと主張できる
しかし、20歳の頃、ミルに精神の危機が訪れます。

精神の危機

ミルは幼いころからベンサムの言う「最大多数の最大幸福」を目標にしてきました。

しかし、ふと思ってしまったのです。

これは私の目標だろうか、と。

「仮に自分の人生の目的がすべて実現されたと考えてみよ。

自分の待望する制度や思想の変革がすべて、今この瞬間に完全に達成できたと考えてみよ。

これは自分にとって果たして大きな喜びであり幸福なのだろうか?」(ミルは自らに質問した)

そのとき、抵抗しようのない自意識がはっきりと答えた。

「否!」と。

これを聞いて私の心はがっくりと落ち込み、私の人生を支えていた基盤全体が崩れ落ちた。

私の幸福のすべては、この目標を絶えず追求し続けることにあるはずだった。

その目標が魅力を失ってしまった。

‐私の生きる目的は、もう何も残されていないように思えた。
(jsミルp120ミルの『自伝』からの抜粋)

ミルは「最大多数の最大幸福」に自分の幸福が関係していないことに気が付いてしまったのです。

人々の幸福を喜べない。

この精神の危機は、「罪の自覚」と結びつけて考えることができます。

罪の自覚の例

ある10人乗りのボートに11人乗っていました。

1人下りなければ、ボートは沈みそうです。

功利主義に基づいてその中にいた元犯罪者に降りてもらうことにしました。

これでボートは安泰です。

快楽計算によれば、全体の幸福度は高いはず。

しかし、1人の犠牲が伴っていました。

これはボートの思考実験ですが、現実には選択があります。

人は自分で選択しなくても、その選択された後の世界に生きているのです。

知らない間に、誰かをボートの外に押し出しているという「罪の自覚」。

この罪を自覚した後で、ミルは量的功利主義を掲げられなくなりました。

目標であったものに対する無感情。

社会の幸福を達成したとしても、虚しく思える。

ミルは感情を失ったロボット(たんなる推理する機械)のようだと自分を例えました。

そして、このような自分に育てた父親を憎んだ時期もあったと言われています。

自分の性格は形成済みで取り返しがつかないように思えたミルは絶望を感じた
ミルは自分が愛のない家庭に育っていて、道徳的成長が出来なかったのだとも感じていた
(後にミルは道徳心は成長するという立場になる)

ミルの回復

しかし、ミルはそう落ち込んでばかりもいませんでした。

本を読んではある部分に感動する自分を発見したり、ある女性に恋したり、自分の意志があることを発見していきます。

「鉄の檻」(信仰を失い絶望の中に閉じこめられた状態の例え)にミルを閉じ込めていたのは、本当は父ではなかった。

父に対する自分の見方や姿勢にこだわっていた精神的に未熟なミルが、自分で自分を閉じ込めていたのである。

そのことに気づき始めた時、最初は「否」としか言えなかった「抵抗しがたい自意識」は、自分で前進するための出口を見出したのだった。
「jsミルp66」

ミルは目標を押し付けられていて、それは「自主的であれという命令」だったことに気がつきました。

そして、この体験を自らの思想の糧にしていったのです。

人間がおたがいを好意的に考えないでも幸福でいられることや、利己的でしかない仕事からでも得られる興奮さえあれば他に何もなくても十分に幸福でいられる、といったことをいったい誰が望むだろうか。(いや、望まない)

‐それを手にいれてしまった人、あるいは、手に入れないうちにそれを追求することにうんざりしてしまった人は、そんなものはまったくむなしいと感じていて、人間の幸福に必要なのは人間を愛することだから、愛するに値するものとして人間を考えることが必要だと感じている
(「jsミル」p69 ミル演説の抜粋)

ミルは自分の精神の危機を一般化しました。

一般の人々でも「最大多数の最大幸福」が現実味をおびなければ、むなしいものである、と。

そのことを前提としながら、ミルはそれでも愛を自覚しました。

回り巡って自分はやはり「最大多数の最大幸福」という人間愛を実現したいと考えたのです。

愛すべき人々の幸福を望んでいる、という気持ちが自分にあることにミルは気がついた
ミルは愛妻家だった。
妻になった人は、元夫人で政略結婚によって男尊女卑の苦しい立場にあった人だったみたい。
ミルは男女平等も説いていたし、主著『自由論』では亡くなった最愛なる妻への言葉がのっている

ミルはこの経験から、ベンサムの思想の欠点に気がつきました。

ミルの質的功利主義とは

功利主義を単純化したゲーム理論で考えてみます。
(社会学史 参照)

社会学史で、ある学者はホッブズの人間観は功利主義的人間観の最も純粋な形だとしています。

ホッブズと言えば、「万人の万人に対する戦い」状態が自然状態だと述べていて、その争いをなくすためにリヴァイアサンに自然権(自分の生命を守る権利)を託すのがよいとしました。

図で表すと、ホッブズの説いた自然状態(争い状態)はD、理想の国家はAの状態。(Dの数字は適当)

お互いがお互いの自然権を放棄すれば、平和な状態Aになると説いたのです。

自然権の放棄とは、お互いが争わないようにするという契約
しかし、この論理には欠点があります。
私個人に限っては、自然権をキープした方が得なのです。
相手が武器を放棄しててもキープしてても、僕は武器を持っていた方が安全!
Dは争い状態、BやCはどちらか一方が片方を支配している状態です。
ベンサムの功利主義の理論では、賢い人が前提でした。
つまり、ただ賢い人は自分の安全のために武器をキープしてしまうのです。
お互いが自分だけの利益を考えていった場合に、最大多数の最大幸福(Aのような理想状態)は実現しない
つまり、賢いこと以外の要素が理想状態になるには必要ということ。
ベンサムは賢くて道徳的な個性のない一律な人間を前提にしていました。
ホッブズもベンサムも「どんぐりの背比べ的な人間」(無個性)を前提にしていた
ベンサムは道徳心も前提にしていたけど、道徳的なら自分は武器を持っていてもそれを利益には使わない、という弁論ができてしまう
ベンサムの視点の改善点を、ミルは『自由論』や「質的功利主義」で考察しました。

ミルの改善点『自由論』

ミルの改善点は、量的功利主義に個性や教育という観点を与えたことです。

人の道徳心は生得的なものではなく、成長していくと説きました。

人間は機械と違って、ある設計図にしたがって作られているわけではなく、決められた仕事を正確に行うように作られているわけでもない。

樹木に似ており、生命のあるものに特有の内部の力にしたがって、あらゆる方向に成長し発展していくべきものなのである。
「自由論」p134

ミルは精神の危機からの回復は成長によって乗り越えたと考えているんだね
人間は生きていく過程で、武器を放棄することを選んだり、他人を助けることに幸福を覚えることを学んだりする、ということ。
さらに、ミルは自由を自分に従うことだと説きました。
自由という名に値するのは、他人の幸福を奪おうとしないかぎり、そして、幸福を得ようとする他人の努力を妨害しないかぎり、みずからの幸福をみずからが選んだ方法で追求する自由だけである。
「自由論」p34
自分にしかない個性なのだから、自分の幸福も自分にしかない。
なので、みずからに従うことによって、自分の幸福を追求していくことが自由なのです。
ただし、自由を追求する前提として、自由という原則を適用できるのは判断能力が成熟した人だけという条件をつけています。
ミルが功利主義に経験から付け加えたこと。
  • 与えられた目標(命令)に対して従うだけだと、途中でその目的にむなしさを感じる
  • 自分で自分が従いたいことに従うのなら(自由)、むなしさは感じにくくなる
  • 判断能力が成熟していないと他人を蹴落としてまで利益に走ってしまったり、人のせいにしてしまう

判断能力の成熟

ミルはベンサムのいう4つの外的な制裁(サンクション、強制力)に、良心による内的な制裁を加えました。

人間は成長するものであり、個性をもつものであり、自由な存在である。

かつ、成長によって社会的な感情を身につけ、それに反した時には良心による責めを感じるようになると述べたのです。

良心による責めってアダム=スミスの共感っぽい考え方だね
ミルは自由の効果の最大の価値は、性格に対して活気を与えるという点だと述べています。
自由は鬱(うつ)を回復させる効果がある
またミルは人間の判断力についてもこのように述べます。
このように、人間の判断の強みと価値はすべて、たったひとつの性格、間違っていたときにそれを正すことができるという性格に依存している‐
ほんとうに信頼できる判断をくだせる人は、なぜそのような能力を身につけることができたのだろうか。
自分の意見と行動に対する批判に、いつも心を開いてきたからである。
「自由論」p51
この文からも、人間の賢さにはある種の感情が必要なことを述べている

ミルのさらなる改善点

人間は成長していくものだとミルは述べました。

そして、この成長には負の側面もあると説くのです。

人間は支配者としてであろうが、市民としてであろうが、自分の意見と好みを行動の規則として他人に押しつけようとする傾向をもっており、この警告は人間性に付随する最善の感情と最悪の感情のうちいくつかによって強力に支えられているので、権力を制限しないかぎり、この傾向を抑制するのはまず不可能である

そして、権力は弱まっているどころか強まっているのだから、道徳的な確信によって権力の乱用に強い歯止めをかけないかぎり、現在の状況ではこの傾向がさらに強まっていくと覚悟しておかなければならない。「自由論」p36

ミルは人々を支配しようとする権力者は、自分が良いと思う方向へ人々を強制してしまうと説きます。

誰かが何かをやろうとするとき、危ないからダメ!とか経験を制御してしまったり、というのはある…
他にも、権力を持つ人間は邪悪な利益を追求する傾向を持つ、とミルは述べている。
人間は自分の価値を高めてしまうと、他を低く見てしまう傾向があるのだとか

なので、ミルは他者危害原則(現代の自由主義の基本原理)を立てました。

他者危害原則⇒人々がある人の自由に干渉できるのは、自分たちを守る場合だけである、という原則。
あるいは、人々がある人に対して権力を行使できるのは、その人が別の人に危害を加えるのをふせぐ場合だけである、という原則。

ミルは自由の原則を、判断能力が成熟した人に向けて説いています。

ならば、なぜこんなことを説くの?といぶかしく思うかもしれません。

それには、ベンサムのような立派な人でも、人の個性を考慮していなかった、という事実があるからです。

つまり、人は成熟しても人にはそれぞれの道徳基準(個性)がある、ということがわからない場合があるのです。

あっ!僕のプリン食べた!!
えっ、そんなに大事だとはわからなかったから…。
ごめんね

ミルと個性

ミルは「最大多数の最大幸福」がもつ「多数派の専制」という欠点も見据えていました。

多数決によってみんなの意見が同じになってしまう弊害。

それに対して、ミルは個性の魅力を説きました。

「人間が高貴で美しいといえる人物になるのは、個性的な性格をすべてなくして画一的になることによってではない。

他人の権利と利益をおかしてはならないという条件のもとで、個性的な性格を育て際立たせることによってである。」(本書p141)

‐(つまり)個性を育てれば人間の生活がゆたかになり、人々の思想や感情が磨かれて人類が進歩する。
「自由論」解説部分p255

ミルは中庸(中間)が良いと思った。
ミルの思想は多面的で捉えにくいとも言われている
ミルは功利主義が利己主義ではないことを強調しました。
さらに、功利主義が「おのれの欲するところを人に施し、おのれのごとく隣人を愛せよ」というイエスの黄金律の精神を受け継ぐものと考えたのです。
今回はミルについてやりました。
次回は社会学のはじまりについて取り扱います。
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