おはようございます。けうです。
苫野一徳さんの「愛」を読んでいます。
>>愛
その中で、恋愛の定義が美しいなと思ったので紹介したいと思います。
恋愛とは
まず恋愛という言葉が明治以前の日本にはなかったことを紹介していました。
恋愛ということばは明治に西洋文化の流入によって発見された概念である、と。
それでも、それは発見であり、言葉が発見されただけで私たちは恋愛と聞いたときにそれがあるように思われます。
そこから、文化や歴史的背景ではなく経験的(現象学的)な恋愛を見ていきます。
まず、恋愛と愛の違いです。
まず恋愛をみていくとして、恋を捉えていきます。
恋とは何か
「愛」が『理念性』を帯びた概念であるのに対して、『恋』はきわめて肉体的・感性的な概念。
徹底的な違いは、愛はこれが愛だ!と確信ができないけれど、恋はこれが恋だ!と確信ができるといいます。
肉体的、感性的だからわかるのだ、と。
なぜなら、この症状を欠いていては恋と呼べない契機を私たちが知っているからだと述べられています。
「胸の高鳴り、驚き、この世ならぬ喜び。しかしその一方で、切なさ、不安、時に度を超すほどの嫉妬・・・。恋に落ちた時、わたしたちは必ず、程度の差こそあれこれらの感情を味わうことになる。」
肉体的にわかるような感覚。
これが恋の契機だと、私たちは知っています。
そして、苫野さんはその状態を詳しく語っていきます。
驚きとしての恋。
「恋に落ちた時、わたしたちは多かれ少なかれ、何らかの驚きに必ず打たれる。」
まずは、これは非日常的な感情が自分に湧きおこった驚きである、と。
意識的にも無意識的にも、このわたしが長らく抱き続けてきた“ロマン”。そんな“ロマン”を、この現実世界に見出してしまった驚きである。
恋は自分のロマンだと本で述べられています。
私はこの人に出会ったことで、この人こそわたしのロマンそのものだと気がつく。
「自己ロマンの投影と、それへの陶酔。」
これが恋なのだ、と。
「自己ロマンとは、挫折経験や満たされなさの反動から作り上げられた憧れの世界にほかならないのだ。」
自分の恋愛に対して感じていた感覚が、文字として表現されているのを私は感じました。
憧れ、空想体験、そのような世界なのだ、と。
そして、恋愛がこのようなものを持ち合わせている点において、芸術と恋はきわめて近い本質を持つと本では述べられています。
恋と芸術
恋と芸術は似ている。
哲学者ハイデガーから言わせると、「芸術とは真理の生成であり生起である」と本では引用しています。
真理の生成とは、わたしたちにとっての“ほんとう”の“意味世界”の“生成”だ、と。
つまり、芸術はわたしたちに「このような“ほんとうの世界”があったのか」と知らしめるものなのだ。
これと恋を重ね合わせて、恋をすることで自分が思う”ほんとうの世界”があったのだ、と実感にいたるということです。
つまり、この”ほんとうの世界”には幻想も含まれます。
さらに哲学者スタンダールの言葉を引用。
「恋が生まれるには、ほんの少しの希望さえあればよい」
ほんの少しの希望とは何か。
「なぜなら恋は、本来“あちら側”にあるはずの自分のロマンを、この現実世界に見つけ出してしまった幻想的な喜びであるからだ。」
幻想的な喜びであるがゆえに、恋は少しの希望なのだと語っています。
さらに他の哲学者の引用から恋をさぐっていきます。
恋は幻想をもつもの。
それゆえに、いつか必ず冷めるもの。
それを知りつつ、プラトンはこう語る。
「恋はまさにその狂気のゆえにこそ、わたしたちに『この世ならぬ喜び』を味わわせてくれる『もっとも善きもの』であると言うべきである」
恋は幻想であるがゆえに、最も善きものに押し上げられます。
「恋の喜びは、本来この世にはあり得なかったはずのロマンが、何を間違ってか、この現実世界に現れてしまったことを見つけた喜びなのだ。」
わたしたちがもっている幻想とか、善いとか、そのような言葉の概念やイメージを、揺り動かされますね。
幻想はもっとも”善い”のだ、と。
私が思っていた善いとは、幻想とは、ロマンとは。
またその言葉の概念がわからなくなるので、私たちはさらに哲学をしたくなる欲求がでてくるのかもしれません。
そして憧れの面ばかりではなく、恋のつらい面もあげています。
恋のつらい面-嫉妬
「しかしそれゆえにこそ、恋はまた同時に、わたしたちの胸を『切なさ』で一杯にする。-この人がいつまでも自分の手の中にいるはずがないという疑いや不安に駆られてしまうのだ。」
なぜ幻想にこのような喪失感や嫉妬を抱くのか、ということについて、その幻想ゆえにそれを抱いてしまうのだと述べられています。
自分の中にある恋愛観が文章にされている感覚を覚えます。
小説家や哲学者が考察して描きだした恋の文章。
これも芸術的であると私は感じました。
さらに男女の恋の感じ方によるエロティシズムの違いにも言及しています。
ただ私は男ではないので、この性別を超えた感覚の違いを私たちはどう知ればいいのかな、ということも思いました。
それには、文章にしてかかれていれば、そうなのだろうなと納得するしかありません。
そう納得するには、対話しかないのかもしれません。
これまで憧れを抱く恋を紹介してきましたが、これが恋愛になると、この一言の引用を苫野さんは用いています。
恋愛とは何か
「わたしはひとり。でもあなたとふたりでいるのだと」
恋愛において、わたしたちは恋を相互の関係性において育て上げられていくのを感じる、とありました。
古代ギリシャでは、恋愛はもっぱら少年愛、すなわち壮年男性と思春期の青年との間の恋愛を意味しています。
なぜか。
それは、当時女性蔑視がなされていて、精神的・知的ロマンを投影できる女性がほとんど存在しなかったからということを表していると言います。
恋愛には精神的・知的ロマンが必要なのだ、と。
ソクラテスもその知的・精神的高貴さにおって、多くの青年たちを魅了したと言われています。
これは苫野さんの哲学的な「恋愛」なのですが、私は読んでいてある種、小説のような、共感できるなという気持ちで読んでいました。
現象学という経験に根差した定義は、共感性を多く刺激することなのだということを私は感じたのです。
そもそも明治前になかった恋愛という言葉ならば、歴史的に捉えなおすというよりは今現在において使われている仕方でその意味を捉えるしかありません。
哲学は難解だというイメージを超えて、これは小説であるかのような、理論だけではない共感を人々に提示しています。
そして、私たちは言葉にされて初めて、自分の気持ちを捉えなおすことができるのです。
恋と恋愛との定義について-まとめ
この定義にどのような意味があるか。
恋を自己ロマンの幻想と知りつつ、もっとも善いものだと定義する。
芸術と恋が似たものだと捉えていく。
そこから、きっと、言葉によるさらなる驚きを私たちは感じていく。
私が思っていたもやもやした感情はこの言葉によって語られているのだ、と。
私が悲しくも嬉しくもあった理由はこのようなことだったのか!
そう気が付かせてくれる言葉だと私は思いました。
身近に役にたつような哲学というのは、このようなものかもしれません。
どんどん私を知っていく行為。
恋に関して、幻想であるから、そこまで傷つかなくていい。
でも、幻想であるがゆえにそれは美しく、人生が豊かになるものなのだ、と。
そこには、さらなる知的満足度と、さらなる胸のどきどきが追加されるのかもしれません。
自分の気持ちが語られていて、それを読み進めている時、またそこには憧れに似たような芸術を味わうような、そんな感覚がある、と私は思いました。
お聞きいただいてありがとうございました。