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「死ぬ権利は権利なのか」-命のスイッチ問題

「死ぬ権利は権利なのか」-命のスイッチ問題

おはようございます。けうです。

青山拓央さんの「心にとって時間とは何か」を読んでいます。
>>前回の「エピソード記憶とエピソード様記憶の違い」はこちら。

 

その中で、自殺について取り扱っていきます。

死ぬ権利は権利なのか、を主題にそれが権利だと考える時の矛盾点を見ていきます。

そして、私が私の命の権利を主張するときに、それは私的な問題を超えて公的な問題になるのはどうしてなのか、を見ていきます。

死ぬ権利は権利なのか

現在の日本の法において、自殺することは罪ではない。

まずこのように記述されています。

現に、自殺を手伝うことは犯罪とされていますが、自殺をした人は罰せられるわけではありません。

そこには自分の命の権利があるように見えます。

しかし、青山さんは「死ににくさ」の問題がそこにはあると述べます

人は簡単には死ねません。

社会的な薬など機械などに頼れば簡単かもしれませんが、その許可はほぼおりません。

なので、この権利は例えばある人に、「アメリカに行くのは自由だけど飛行機も船も乗るのは禁止だよ」と言っているようなものだと言います。

私に命のスイッチがついていて、それをオンオフすれば簡単に死ねるといった装置が人間にはないことが問題なのだ、と。

「命のスイッチは存在しないが、科学技術の助けによって、その代替物を得ることはできる。-だが、そうした代替物を合法的に得ることは、ほとんどの人にはきわめて難しい。-自殺をしても(アメリカに行っても)罰せられないことを「権利」と呼ぶのは欺瞞的である。」

このように述べられています。

 

命のスイッチを例にとるならば、私はそのスイッチを押したいのにそれが警察や国家によって厳重に守られている状態です。

ルパン三世のような技量を持たなければ、それを盗み出すことはできないし、それを盗もうとすると警察に捕まってしまうけれど、盗む権利はあると言われているようなもの。

つまり、自殺を実行するには、そこには死の恐怖(スイッチを切る)以上の状態がある。

強烈な苦痛、自殺の失敗、後遺症の可能性等の恐怖を乗り越えなければいけなくなります。

なので「死ににくい」人間は、この「権利以前の権利」をうまく使うことができず、その意味において自殺の権利を所有しているとは言えなくなる、と本で述べられています。

では、このことを踏まえて自殺の理想と現実を見ていきましょう。

自殺の理想と現実問題

自殺の権利という権利という面は強い社会性を帯びています。

では、権利という言葉から離れて、一般的な自殺の共感はどうなのか、と新たな問いを青山さんは提起します。

青山さんは脚本家の橋田寿賀子さんの「安楽死で死なせて下さい」を例に、彼女の意見には多くの賛同があったと述べます。

当時92歳の彼女が書く、認知症になって自分が自分ではなくなっていく恐怖、また難病のつらい点などを述べて読者に共感や同情を誘います。

「人に迷惑をかける前に、その前に死に方とその時期くらい自分で選びたい」と橋田さんは述べられています。

けれど、そこには脚本家としての橋田さんの文章のうまさがあるという問題が含まれます。

もし、同じような苦痛を感じている人でも、文章や伝える力が弱ければ、そこには共感してもらえないかもしれない。

自殺の現実問題

青山さんの本の記述に戻ります。

「つまるところ人間は、自分と似た境遇にある他者のことしか、よく分からない。」

文章や伝える力が弱くても、他者が同じような境遇を想像できる場合、その場合には社会的にも安楽死が認められるケースはありうる。

けれど、どれだけ話し合えば相互理解というのが可能なのか。

今日で言われる多様性は脳の多様性も含まれます。

自殺に関しての感じ方の個々人の違いもここでは思慮されているのです。

「命のスイッチは存在せず、『私』はその代替物を得るために社会の承認を受けなければならない。こうして『私』は、自分の『理想の自殺』に関して、なぜそれが公共的にも理想であるのかを説明させられる。それは実質的に、社会に対して自分の苦しみの詳細をー他者にも想像可能な範囲で!―語っていく作業となるだろう。」

 

このようにして、本人に理想の自殺があったとしても、そこには社会性をおびなければいけない面がでてきます。

社会性をおびさせられる面。

いろいろな恐怖を乗り越えて自殺したとしても、自分でやる分には失敗するリスクが高い。

そうなれば、科学技術を求めるのだけど、そこには私の死ぬ権利に関しての一般性が求められます。

しかも、一般的に言えば、自殺は認められないことや共感されないことが多い。

例えば、権利問題では強行突破して命のスイッチを盗もうとしても捕まったので、今回は弁論によってそのスイッチを押そうと考える問題に切り替わった。

そのようにも捉えられます。

どのみち認められる道は険しいのには変わりはありませんが。

また、その問題は未来の自分にも及ぶと述べられていました。

自殺の「他殺」性という現実問題

今私は死にたいと思っている場合。

20歳の頃に自殺未遂をしたけれど、死にはいたらず生きて40歳になったとする。

そのとき40歳の自分に20歳の自分が現れて殺そうと迫ってきた。

この場合SFになりますが、40歳の自分はおそらく抵抗をしめします。

過去の自分と今の自分は違うのだ、と。

例えば、それは認知症問題にも関わってきます。

私は私でなくなるのが嫌だから、病気になったら安楽死をしたいと言っていたとする。

けれど、その認知症になった自分はそのときの自分ではない。

新しい自分は、死ぬことを嫌がる可能性がでてくる。

そうしたときに、それは殺人になるのではないか、と。

私はどこまで私なのか、という哲学的な問いがこの現実問題とリンクしてきます。

例題はSF的ですが、私は過去も未来も私であることを考えると、現実味を帯びます。

「死ぬ権利は権利なのか」まとめ

権利の矛盾。

自殺は公的でもあり、私的でもある。

「命のスイッチ」がないことによる死ににくい問題。

自殺の認めらえやすさの度合いがある。

過去の自分と今の自分の違い。

これらの問題があることが明確になってきました。

 

これは他のことについても考えられます。

私はもしかしたら、文章技術を発達させていけば、文章によって人々を納得させられるようになるかもしれない。

社会的に高めていた技術が自分に役立つ。

こうしたときに、社会的な自分にとって役に立つのか、私的な自分にとって役に立つのかといった議論にも立てる、と感じました。

自殺を認められたとき、その要求を社会的に認められることになる。

ただし、社会的に認められた後に、その認められた私はいなくなってしまう。

死にたいと思っている私は私的な私であり、公的にそれを認めさせる能力がある。

社会はその私を認めるとき、その認可としては記録に残るけれど、私にそれは関係がなくなる。

社会的に努力するとき、その元の私というのは社会的に合わせて変化した私であり、元の死にたいと思っている自分と同じなのか、と私は考えていました。

では、聞いていただいてありがとうございました。

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