おはようございます。けうです。
青山拓央さんの「心にとって時間とは何か」を読んでいます。
>>前回扱ったものはこちら「意志と倫理観と責任を考察ー私をあやふやにする例」
青山さんはまず初めに言います。
人にとって、何に心がゆり動かされるかはそれぞれだ、と。
私も読んでいて、ここには関心がある。
でも、ここには関心が働かない。
このような個所が多々あります。
その私が感じる哲学的疑問も、各章によってズレているということを強く感じています。
私はいまだ時間そのものの謎を謎に思えていない点があるかもしれない、など。
常識とは指摘されても、それが人の主題にのぼるかのぼらないかの違いは何か、という問いも気になりました。
では、今回はこの本の中から、記憶に関する話を抜粋します。
私たちはエピソード記憶というと、一般に通用するようになってきています。
思い出すときのエピソードをまじえた記憶です。
昨日は何をしたとか、公園で遊んだとかいったエピソード。
エピソード記憶とエピソード様記憶の違いとは何か
ところが、青山さんはそれに疑問を投げかけます。
まず問いの出発点としては、動物にはエピソード記憶があるのか、です。
動物にそれがあるような場合に、エピソード様記憶と言われています。
なぜ「様」という漢字が一文字入るのか。
まずはここからスタートしていきます。
まず鳥にとってのエピソード記憶のようなものを提示します。
ある実験で、フロリダカケスの習性を述べていました。
・新鮮なガの幼虫を落花生より好んで食べる。
ガ>落花生
・新鮮でない腐ったガの幼虫よりは落花生を好んで食べる。
腐ったガ<落花生
実験では新鮮なガの幼虫と落花生とを異なるタイミングでフロリダカケスに隠させ、のちほど隠し場所を調べさせることで、次の二つの状況を比較。
②四時間前に落花生を隠し、5日前に幼虫を隠した状況。
この状況のときに、フロリダカケスは①では幼虫の隠し場所を優先的に調べたのに対して、②では落花生の隠し場所を優先的に調べた。
そして、この実験結果から、フロリダカケスは食料を隠した場所についての時間的な経過、「いつ」「どこに」「なに」に関するエピソード記憶のようなものを持っていると解釈されました。
では、なぜこの実験解釈でもエピソードのような記憶といわなければいけないのか。
エピソード記憶と明確に言えない理由は何か?
ということを探っていきます。
エピソード記憶とは何か
そこには人が記憶を主観でみていることと関連してきます。
フロリダカケスはそのエピソードのような記憶があるけれど、その主体が誰か分かっていない可能性がある、または主体を置いているのかわからない、といったことが関係しています。
隠したのは主体であるかどうかはわからないけれど、状況は把握している。
人間の場合で行きます。
私が冷蔵庫に牛乳と、漬物を入れたとします。
牛乳は長持ちしないのですぐに飲まなければいけないのですが、漬物の気分だったので私は漬物を食べました。
このように人間の場合で記する場合、そこには主観が入り込みます。
客観的に把握しているエピソード記憶としては、私は賞味期限の違うものを購入している。
違うものを購入しているけれど、その時の気分によって賞味期限とは関係のないものを選択した。
人間が記憶を思い出すときに、私というのはきっても切り離せないものとして記述されます。
主語を抜かして書いたとしても、私が記憶をつづっているのならば、それは私の記憶として一般的に把握されます。
私が食べたくて食べたという主観的な記憶。
私は賞味期限という観点からは動かされずに漬物を食べるのだ、という客観的に自分の人間性を見た場合のメタ記憶。
賞味期限と言うのモノが存在して私は知識としてそれを持っていると言う客観的な情報の記憶。
一つのエピソード記憶に対して、私は記述できるものを多数もっています。
まだ他にも発見するのかもしれません。
人間はそのように想起するだろう。
そう思って私たちはエピソード記憶と名づけています。
人間一般にあるだろうものとしてのエピソード記憶です。
エピソード様記憶とは
一方で、私はフロリダカケスではありません。
青山さんは類人猿を例に述べます。
「先述の表現を使うなら、類人猿は(自分自身を主語としない)一度限りの対象エピソードについての記憶を所有できるようだが、自分自身を主語とするメタエピソードについての記憶を所有できるのかどうかは分からない」
私たちは人間だから、人間のことがわかるとしてエピソード記憶と名づけます。
一方で、動物の心というのはわからない。
なので、エピソード記憶のように見えるものでも、エピソード様記憶と述べなければいけなくなるのです。
ここまでの議論によって、エピソード記憶とエピソード様記憶が大きく違う、ということに私は納得しました。
動物を人間はわからない。
このことが、様々な人間を主体におく用語のときには必要になってくるのだ、と。
一番は昆虫などと比べるとわかりやすいかもしれません。
目の構造が違っていて、見えている世界が大きく違っていると言われています。
因果関係とエピソード記憶
そして、エピソード記憶に関しては、さらには因果関係にまで議論が及びます。
私は賞味期限という用語を知っているのであり、それによって記憶を結び付けている。
私は私を知っているのであり、物事と私を結び付けている。
「ヒトの身体が因果関係の結束点だからであり、身体のこのような在り方は論理的には偶然である。」
論理的には偶然だと言われますが、私たちは自然と因果関係を自分自身と結びつけています。
それによってエピソード記憶ができあがる。
エピソード記憶の新たな問い
さらなる問いとしては、そのようなあり方から認識されている私とは何か、という問いです。
疑問になってくるのは、私の体がバラバラに生きて存在していたら?
という可能性。
例えばインターネットで、私はそこにいながら、他の離れた場所にいるかのようにも感じられている。
そのとき私の解釈に新たな側面が登場するのではないか、青山さんは述べます。
「このとき、ある人物を一個人たらしめているのは、空間領域のまとまりではなく、因果関係のまとまりだ。世界中に散在する諸物が一人の「私」を構成するのは、因果的な一つのネットワークによる」
エピソード記憶と私は普通に使っていたけれど、そこにはどう解釈していけばいいのか、まだ謎や突き詰めていく要素が含まれているということです。
テクノロジーの発展とともに、過去に言われていた用語の解釈もまた新たに解釈されるのではないかと思いました。
では、お聞きいただいてありがとうございました。