デカルト

デカルトと「考えるわたし」|高校倫理1章2節3

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
今回は
高校倫理第1章
「現代に生きる人間の倫理」
第2節「科学・技術と人間」
3.デカルトと「考えるわたし」
を扱っていきます。
前回は哲学者フランシス・ベーコンと「知は力なり」を見てきました。
>>1.科学革命とは何か
>>2.哲学者フランシス・ベーコンと「知は力なり」
科学革命が起こると、それに伴って思想も変わっていきました。
一つは、哲学者フランシス・ベーコンによる「知は力なり」という思想。
それ以前の「科学と技術」が切り離された状態から、それらをくっつけることで生活の質の向上をベーコンは説きました。
例えば、お肉が腐るから食べようとか祈ろうという発想から、腐らないように冷蔵しようという考えに変えること
そして、もう一つがデカルトの「考えるわたし」という思想。
私(精神)と物を切り離すことで、近代的自我という思想と、機械論的自然観を基礎づけました。
機械論的自然観はガリレイの「自然という書物は数学の言葉で書かれている」に代表される自然観
デカルト(1596-1650)は近代哲学の父とも呼ばれています。
ブログ構成
  • デカルトの「考えるわたし」
  • デカルトの物心二元論

参考文献 方法除説(ルネ・デカルト 小泉義之訳)デカルト「われ思う」のは誰か(斎藤慶典)情念論(デカルト 谷川多佳子訳)不思議な少年(マーク・トウェイン 中野好夫訳)

デカルトの「考えるわたし」とは

デカルトは、感覚的な経験よりも理性を重んじました。

理性を知識の源泉とみなす考え方を合理論と言い、理性によって知識を得る方法を演繹法と言います。

演繹法の例

  1. 全ての人間は死ぬ(一般的法則)
  2. ソクラテスは人間である(推理)
  3. ソクラテスは死ぬ(個別的判断)

デカルトは理性を良識(ボン‐サンス)とよび、良識は万人にひとしく与えられていると説きました。

経験を重んじたのはベーコンで、帰納法によって新しい学問方法を唱えたね
デカルトはこの方法に従い、まずは絶対に確実な真理(疑いえない一般的法則)を得ようとしました。

考えるわたし

デカルトが絶対的に確実な真理を得るためにとった方法は、方法的懐疑です。

方法的懐疑⇒すべてを疑うという方法で、感覚や学問、身体の存在さえも疑う
デカルトは数学者でもあるから「1+1=2」は疑わなかったんでしょ?
疑ったよ!
人は計算ミスも起こすから、そのことも疑わしいとした
デカルトは幼いころは本ばかり読んでいました。
そして、同一の題材について学者によってさまざまな見解があることを知って「真に見えるものすべてをほとんど虚偽だと評価」(方法除説p16)したのです。
しかし、それぞれの学問には土台があることを発見しました。
デカルトは哲学における土台(疑い得ないもの)を発見しようとしたのです。
他の学問は哲学から原理を借りてるから、まずは哲学だとデカルトは思った

「わたし」の発見方法

デカルトは哲学における土台を発見するために、旅にでることにしました。

本に頼らずに道徳によって生活をしながら、真理(土台)を発見しようとしたのです。

真理発見途中の生活指針(デカルトの道徳)

  1. 「わが国の法律と習慣に服すること」
    (多くの者はおのれの信じるところを知らないから)
  2. 「自らの行動において、できる限り確固として果断であることであり、どんなに疑わしい見解でも、ひとたびそうと決めた以上は、極めて確かな見解である場合に劣らず、移りきせずにそれに従うこと」
    (遭難から脱するには、脱出する方向を選ぶから。ずっと遭難しているよりはまし。)
  3. 「運命より自己に打ち勝つよう努めること、そして、世界の秩序より自己の欲望を変えるよう常に努めること」
    (人間や自己の限界を知り、絶対的に不可能だと信じることに慣れること)
    (方法除説p33 参照)
「旅人は森で迷ったとき、あちこち回ってさ迷うべきでも、一箇所に留まるべきでもない。常に同じ方向に直進すべき」(方法除説p35)という旅の掟を模倣して、さ迷うよりはいくぶんかましな方法を提示した
ちなみに、後年にはこの3つにさらに一つを加えています。
「精神が、なすべきこととなすべきでないことを知り、理性がすすめることを、情念や欲望に妨げられることなく遂行し、できうるかぎり理性にしたがって自分を導くこと」
(「情念論」解説ページp254)
このような経緯により、情念とは何か、という問いがデカルトに「情念論」を書かせます。
デカルトは理性を「良識」だと考えていた。
私達は理性と感情を分けて考えることがよくあるけど、良識には感情の一部も含まれていそうだね

「わたし」の発見

デカルトは3つの規則に従い、それ以外はすべて捨てることも自由だと考えました。

そして、探している間は観客であろうと努めます。

‐それに続く九年間、私は世界の中をあちこちさ迷うばかりで、世界で演じられるどんな芝居においても役者であるよりは観客であろうと努めた。
(方法除説p39)

そうしているうちに、「考えるわたし」をデカルトは発見します。

‐それまで精神に入ってきたものはすべて、私の夢の幻影と同じく真ではないと仮想する決心をした。

しかし、その後すぐに、このようにすべては虚偽だと私が思考しようとするあいだも、そう思考する私が何ものかであることは必然的であることに気をつけた。

そして、この真理〈私は思考する、故に、私は存在する〉は極めて堅固で極めて確かであって、懐疑論者によるどんな途方もない仮定も揺るがすことができないほどであることに着目して、私はその真理を、探していた哲学の第一原理として躊躇なく受け取ることができると判断したのである。
(方法除説p45)

すべては偽だと疑いながらも、観客としての「考えるわたし」がいた
デカルトは世界という舞台に登るときには、仮面をつけて進み出よう(方法除説p42解説部分)と述べている
こうして「わたしは考える、それゆえにわたしはある」(コギト=エルゴ=スム)をデカルトは哲学の第一原理に捉えました。
この「考えるわたし」は、「考える」という働きとしてのわたしです。
つまり、精神(理性)としての自己のことで、肉体的・感覚的な自己とは切り離されています。
デカルトの「わたし」や「ある=存在する」は、デカルトの文脈によって私たちの普通とは異なる意味を含んでいる

デカルトの物心二元論(心身二元論)

デカルトは精神と物体(身体)を独立したものととらえ、両者を実体とみなしました。

デカルトの実体とは、「それ自体で存在するもの」を指します。

物心二元論(心身二元論)⇒精神と物体を独立した存在とする立場
精神の本性⇒かんがえること、「思惟(しい、思考)」
物体の本性⇒空間的な広がりをもつこと、すなわち「延長」

こうして、デカルトの物心二元論は、主体としての自己(近代的自我)と、機械論的自然観を基礎づけることになったのです。

しかし、デカルトは後に、「精神は理性的な意志(高邁の精神、こうまいの精神)によって情念を支配する」とも述べます。

デカルトは精神と身体の連動を認めたんだけど、そうなると物心二元論とは矛盾している
だから、後の哲学者はこの矛盾を考えていった

機械論的自然観と人間機械論

物心二元論に従っていくと、人間機械説(人間は機械である)という説も出てきます。

人間の精神は思惟(考えること)であり、身体と切り離せてしまうからです。

そうなると、現代の脳科学のようにこの部分が働くから怒っているのだ、という分析が可能になります。

現代科学で、人が意思する前に体が動いていたという実験があるよね。
意思が身体によって動かされるとしたら、「身体>意思」という構図ができて、「私は脳であるという説」もでてくる
ただし、デカルトは機械を劣ったもの(言葉を話せないし、すぐ誤作動するもの)だとみなしていた。
その頃、AI(人工知能)は考えられていなかったし、AIが人間の知性を凌駕するという発想はなかった
例えば、作家マーク・トウェイン(1835-1910)は「人間とは何か」で、人間機械説を説きました。
人間は自己満足(欲望や情念、つまり、物)によって動かされているにすぎない、とする説です。
こうなると、心と物を二つに分けたはずが、心が物に支配されているという関係ができることになります。
これはよくペシミズム(厭世主義、悲観主義)と言われるね
しかし、マーク・トウェインはその後に「不思議な少年」という本を出しました。
この本の中で、人間は良心(善悪を分けるもの)なんて持っているからひどいことができるのだ、と人間によるひどさ(戦争や魔女裁判など)を不思議な少年は語ります。
良心を善いものと思っている僕(主人公)は、魅惑的な不思議な少年の言葉に葛藤する
構図として、不思議な少年は良心(精神)が物より下なことを示しているんだね
それでも、その本の最後で不思議な少年は僕(語り手、主人公)に向かってこう語ります。
「そうさ、なんにも存在などしちゃいない。
すべては夢なんだ。
神も、人間も、世界も、太陽も、月も、それから、あの無数の星だって、すべては夢にすぎん。
実在なんかしてやしない。
ただあるものは空虚な空間、そして君だけなんだよ。
‐その君も実は君じゃない。
肉もなければ、血も骨もない。
ただ一片の思惟にしかすぎないんだよ。

(不思議な少年p230)

こうして、人間機械論を推し進めていくと、もとの物心二元論の不思議に戻ってきます。

心と物とのつながりはいまだに謎なのです。

物が心を動かせたとしても、心は脳科学では解き明かせないのではないかと言われています。

デカルトは「考える私」を発見した後、完璧なものを考えることが出来る私に対して、神の存在を証明したよ
考えるわたしが現実の世界(夢でない)とわかるには、神がその観念を人間に与えたとしか考えられないと思ったんだね
今回はデカルトと「考えるわたし」をやりました。
次回は、経験論と合理論について取り扱います。
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