「現代に生きる人間の倫理」
第2節「科学・技術と人間」
3.デカルトと「考えるわたし」
- デカルトの「考えるわたし」
- デカルトの物心二元論
参考文献 方法除説(ルネ・デカルト 小泉義之訳)、デカルト「われ思う」のは誰か(斎藤慶典)、情念論(デカルト 谷川多佳子訳)、不思議な少年(マーク・トウェイン 中野好夫訳)
デカルトの「考えるわたし」とは
デカルトは、感覚的な経験よりも理性を重んじました。
理性を知識の源泉とみなす考え方を合理論と言い、理性によって知識を得る方法を演繹法と言います。
演繹法の例
- 全ての人間は死ぬ(一般的法則)
- ソクラテスは人間である(推理)
- ソクラテスは死ぬ(個別的判断)
デカルトは理性を良識(ボン‐サンス)とよび、良識は万人にひとしく与えられていると説きました。
考えるわたし
デカルトが絶対的に確実な真理を得るためにとった方法は、方法的懐疑です。
人は計算ミスも起こすから、そのことも疑わしいとした
「わたし」の発見方法
デカルトは哲学における土台を発見するために、旅にでることにしました。
本に頼らずに道徳によって生活をしながら、真理(土台)を発見しようとしたのです。
真理発見途中の生活指針(デカルトの道徳)
- 「わが国の法律と習慣に服すること」
(多くの者はおのれの信じるところを知らないから) - 「自らの行動において、できる限り確固として果断であることであり、どんなに疑わしい見解でも、ひとたびそうと決めた以上は、極めて確かな見解である場合に劣らず、移りきせずにそれに従うこと」
(遭難から脱するには、脱出する方向を選ぶから。ずっと遭難しているよりはまし。) - 「運命より自己に打ち勝つよう努めること、そして、世界の秩序より自己の欲望を変えるよう常に努めること」
(人間や自己の限界を知り、絶対的に不可能だと信じることに慣れること)
(方法除説p33 参照)
「精神が、なすべきこととなすべきでないことを知り、理性がすすめることを、情念や欲望に妨げられることなく遂行し、できうるかぎり理性にしたがって自分を導くこと」
(「情念論」解説ページp254)
私達は理性と感情を分けて考えることがよくあるけど、良識には感情の一部も含まれていそうだね
「わたし」の発見
デカルトは3つの規則に従い、それ以外はすべて捨てることも自由だと考えました。
そして、探している間は観客であろうと努めます。
‐それに続く九年間、私は世界の中をあちこちさ迷うばかりで、世界で演じられるどんな芝居においても役者であるよりは観客であろうと努めた。
(方法除説p39)
そうしているうちに、「考えるわたし」をデカルトは発見します。
‐それまで精神に入ってきたものはすべて、私の夢の幻影と同じく真ではないと仮想する決心をした。
しかし、その後すぐに、このようにすべては虚偽だと私が思考しようとするあいだも、そう思考する私が何ものかであることは必然的であることに気をつけた。
そして、この真理〈私は思考する、故に、私は存在する〉は極めて堅固で極めて確かであって、懐疑論者によるどんな途方もない仮定も揺るがすことができないほどであることに着目して、私はその真理を、探していた哲学の第一原理として躊躇なく受け取ることができると判断したのである。
(方法除説p45)
デカルトの物心二元論(心身二元論)
デカルトは精神と物体(身体)を独立したものととらえ、両者を実体とみなしました。
デカルトの実体とは、「それ自体で存在するもの」を指します。
物心二元論(心身二元論)⇒精神と物体を独立した存在とする立場
精神の本性⇒かんがえること、「思惟(しい、思考)」
物体の本性⇒空間的な広がりをもつこと、すなわち「延長」
こうして、デカルトの物心二元論は、主体としての自己(近代的自我)と、機械論的自然観を基礎づけることになったのです。
しかし、デカルトは後に、「精神は理性的な意志(高邁の精神、こうまいの精神)によって情念を支配する」とも述べます。
だから、後の哲学者はこの矛盾を考えていった
機械論的自然観と人間機械論
物心二元論に従っていくと、人間機械説(人間は機械である)という説も出てきます。
人間の精神は思惟(考えること)であり、身体と切り離せてしまうからです。
そうなると、現代の脳科学のようにこの部分が働くから怒っているのだ、という分析が可能になります。
意思が身体によって動かされるとしたら、「身体>意思」という構図ができて、「私は脳であるという説」もでてくる
その頃、AI(人工知能)は考えられていなかったし、AIが人間の知性を凌駕するという発想はなかった
「そうさ、なんにも存在などしちゃいない。すべては夢なんだ。神も、人間も、世界も、太陽も、月も、それから、あの無数の星だって、すべては夢にすぎん。実在なんかしてやしない。ただあるものは空虚な空間、そして君だけなんだよ。‐その君も実は君じゃない。肉もなければ、血も骨もない。ただ一片の思惟にしかすぎないんだよ。」(不思議な少年p230)
こうして、人間機械論を推し進めていくと、もとの物心二元論の不思議に戻ってきます。
心と物とのつながりはいまだに謎なのです。
物が心を動かせたとしても、心は脳科学では解き明かせないのではないかと言われています。