おはようございます。けうです。
苫野一徳さんの新書「愛」を読んでいます。
>>愛
その中から、愛の分類について詳しく取り上げてみようと思います。
苫野さんはいいます。
こうしてわたしたちは、「愛」の本質を真に現実的な姿として捉えるためには、「愛」という言葉で指名されるわたしたち自らの体験を、普遍的な了解可能性に向けて言葉にしていくほかない。
そして、これを愛の現象学と述べていました。
自分の体験の内省から、そのものの本質に迫っていくことをいいます。
自分が経験したことを元に、愛を考えていくことです。
まず愛についての初歩段階として、「好き」をみていきます。
次に、「好き」の次にある「愛着」をみていきます。
「好き」から「愛着」になりその先に「愛」があると本で述べているからです。
なので、まずは「好き」と「愛着」を概念として捉えられなければ、いつまでも「愛」の概念がぼやけたままだと言えます。
「愛」を見るために「好き」と「愛着」を捉え、さらにその違いを明確にしていきましょう。
「好き」とは何か。
まず普段、使っている「好き」を見ていきます。
この曲が好き、この本が好き、あなたが好き。
「こうしたごく単純な『好き』が意味しているのは、言うまでもなく、その対象によってこのわたしのエロス(快)が掻き立てられることが『好き』であるということである。」
エロスとは、その好きなものによってわたしの情動が動かされ、その対象によって私が心地よくなることをいいます。
続けてこう述べられます。
「したがって、ごく単純な『好き』の本質は、一種のエゴイスティックな欲望にある。」
私たちは、好きなものを奪いたくなるし、好きなものを何度も味わいたくなります。
では、「好き」をある種のエゴイスティックな欲望を根にもつ感情と定義したときに、その発展形である「愛着」を見ていきます。
「愛着」とは何か。
「一方『愛着』は、この『好き』のエゴイズムをいくらか超え出た感情である」
例えば、経験からこのぬいぐるみに愛着を持っているとか、この長年愛用したペンに愛着を持っている、もらった時計に愛着を持っている、という場合を想定してみます。
その場合、私はその「愛着」対象をだれかに破壊されたとしたらどのような気持ちになるかを想像します。
「その時わたしが感じるのは“このわたし”が傷つけられたという怒りや悲しみであると同時に、あるいはそれ以上に“そのもの”それ自体への哀惜(あいせき)ではないだろうか?」
このように述べられています。
想像してみると、ただ好きなものを傷つけられても私たちは平気かもしれません。
あなたがケーキを好きだったとして、ダイエットの為に禁止されたとしても、その好きなことへの悲しみはありますが、そのケーキ自体に関しては思慮しません。
しかし、あなたがある特定のケーキに愛着を持っていたとします。
そして、それを毎回買っていたとすれば、そのケーキ自体がなくなってしまうことへの哀惜を感じます。
好きの感情が、その対象自体にも宿って、その対象を慈しむことが愛着です。
苫野さんは「愛着」と「執着」を区別するとわかりやすいのではないかと述べます。
「愛着」と「執着」の違い
執着は、どこまでも、“このわたし”の欲望への拘泥だ。
「愛着」は対象を慈しみ、「執着」はおのれの欲望に拘泥する。
このような違いが愛着と執着にはあります。
さらに、私たちはよく愛は憎悪に変化すると言いますが、憎悪するのは執着だと苫野さんは言います。
そこには自分への欲望があるだけで、愛は憎悪には変わらない、と。
「わたしが彼女を憎悪するのは、彼女に投影していた“このわたし”の自尊心への執着が蔑ろにされたからなのだ。」
愛だと思っていたものはただの執着であり、そこには「好き」という感情があるだけなのだと言えます。
では、「愛着」について考察していきましょう。
私がそのモノ、その人に愛着を感じる時、そこには時間の経過があると述べています。
第一に、このモノ(人)がわたしに安心や受容感を与えてくれるから「愛着」がある。
第二に、愛着の対象は、必ずある歴史性を帯びている。
この1,2が一緒になって、わたしに繰り返し安心や受容感を与えてくれたモノ(人)に対して、わたしたちは愛着を抱くのだ、とあります。
「どれだけ歴史性を帯びていても、それがわたしを受容し肯定してくれるものでなければ、わたしはそのものに愛着を抱けない。-愛着にとって重要なのは、そのものの価値それ自体ではなく、このわたしとの『歴史的関係性』なのだ。」
愛着には好きの他に、そのものとの時間的関係性や、私への受容や肯定が含まれている。
そうとらえると、愛は憎悪にかわるものではなく、もっと安心できる暖かいモノ(コト)のようなイメージが私には流れ込んできました。
「好き」と「愛着」の違い-まとめ
好きはエゴイズム。
愛着は好きの発展でもあり、わたしとその対象に「歴史的関係性」を持つ。
さらに、愛着には心地のよい関係性があり、そのものは私を受容し肯定してくれる。
このようにまとめられます。
「好き」が一方的であり、相手との歴史的関係性や受容や肯定を含まなければそれは執着でしかないと本から解釈できます。
区分けていくことで愛が明確になっていきます。
また、愛にはレベルがあると苫野さんは述べます。
その最下位に位置するのがまずは愛着。
そこから、分離的尊重や合一感情を持って、それが高まっていくにつれて高次の愛に移っていくといいます。
私は愛がわからないとしたら、身近な愛着をもっているものから捉えればいいのだと教えられた気がします。
私自身はそれほど関係なく、そのもの自体を大切にしたいと思うものが愛に繋がっていく。
それはそのものそれ自体が自立していることによる私と分離された尊重。
さらに、私はそのものを好きでいるので、合一になりたいという感情。
分離と合一という二つが相反しているように聞こえるものの、二つが矛盾することなく居座るものが愛なのだ、と語っていくのです。
本ではまず愛の一番下の段階として「愛着」を捉えました。
そこから本ではさらに「友愛」や「性愛」、「恋愛」、「本当の愛」にせまっていました。
では、お聞きいただいてありがとうございました。