第1節「生命の倫理」
2.リプロダクティブ‐ライツとは何か
>>1.生命倫理(バイオエシックス)とは何か
子どもをもつか・もたないか。もつとしたらいつ、何人の子どもをもつかを女性がみずから決定することができる権利をいう。
1994年カイロの国際人口・開発会議で採択され、妊娠中絶や受胎調節の権利も含まれていると解釈される
- リプロダクティブ‐ライツとは何か
- リプロダクティブ‐ライツとARTの問題
- リプロダクティブ‐ライツと性の問題
参考文献 「ART大国日本から考えるリプロダクティブ‐ヘルス/ライツと女性」(河内優子)、「脳死・クローン・遺伝子治療」(加藤尚武)、「トランスジェンダーになりたい少女たち」(アビゲイル・シュライアー著、岩波明監訳、村山美雪・高橋知子・寺尾まち子共訳)
リプロダクティブ‐ライツとは何か
1990年代、リプロダクティブ‐ライツ(性と生殖に関する権利)が前面に押し出された背景には、「自由意志」「自己決定」「自己責任」が重要視されてきた時代背景があります。
リプロダクティブ‐ライツは特に女性を中心に考えられた権利です。
「産むか産まないか、いつ産む、何人産むかは、個人の自由」という考え方が広がり、妊娠・出産も個人により操作可能と過信されるようになりました。
「ART大国日本から考えるリプロダクティブ‐ヘルス/ライツと女性」では、その過信が一つに、日本をART(生殖補助医療)大国にしたと述べています。
(以下、統計データはこの本からの引用)
でも、次第に30歳以上で初産の人が増えてそれが常識になったから、特別な名称はつけなくなった
(母体が安全で、産まれてくる子も「健康」であるために、出生前診断は年齢があがるほど受ける率が高いというデータがある。)
就労を中断できない社会背景は、もっと日本をART大国にしていく(「いつ産むのかという視点を見過ごしてきた日本のひずみ」(p13))
ARTに頼るということは、どのような問題があるのでしょうか。
リプロダクティブ‐ライツとARTの問題点
リプロダクティブ‐ライツというのは、自己決定権に関わってきます。
その中でARTに頼ることにおける他の問題点を2つとり上げます。
- 女性の年齢による制約
- 産まない権利
女性の年齢による制約
日本はART大国で、医療もトップレベルを誇るのにもかかわらず、ARTによる採卵一回あたりの出産率は65カ国中最下位という極端な低さです。(p6)
それは、日本が40歳以上でもARTによる治療を受けているのに対し、他の国では40歳以上をART適応外にしている可能性が高いからだとあります。
つまり、ARTという高度な医療技術を駆使したとしても、女性の年齢による制約は解消されていないのです。
精子に比べて卵子は制限がある。
卵子を冷凍保存しておくという選択もあるね
自分のお腹を痛めるとか、血統主義というのも絡んでくる
- 根治治療
- 救済治療
- 医療技術の便宜的な利用
そして、妊孕力が低くなったときに行なうARTは②の救済治療にあたると述べます。
性転換手術は、本来の意味での治療からかなりはみ出したところにあるが、不妊治療も同じである。
不妊に対する対策として人工授精をするのも、性転換手術と同じで、これは決して、不妊の原因となった子宮の異常を治しているわけでもなければ、卵子の不調をもたらす排出機能を治しているわけではない。
その異常さはそっくりそのままにしておいて、子どもを作りたいという希望はかなえるという一種の救済治療である。
(脳死・クローン遺伝子治療p77)
美容整形は保険が適応されていなくて、場合によって③になっている
異常な状態を正常な状態にするのは正しい医療行為であるが、正常な状態を異常な状態にするのは正しい医療行為ではないという常識は守らなくてはならない。
(脳死・クローン遺伝子治療p100)
少子化対策は経済効果もある。
そうなると、何が「正常な状態」なんだろう
産まない権利
リプロダクティブ‐ライツには、性と生殖に関する女性の選択権を要求する運動にも展開しています。
旧来、女性は受け身で、性、セックス、生殖などについて何も知らない方がよいとされ、自分で決めることもできず、夫に重要な決定を委ねてきた歴史がある。
だがそうした旧弊に異議を唱え、自分の身体を知り、自分の身体は自分でコントロールしようという「からだこそ、わたしたち自身」という考え方がまず始まり、それが「子どもを産むか産まないかのところで自決権がなければ、女性の本当の自立はない」という主張につながっていった。
(ART大国日本から考えるp31)
ここで、各国と日本を比較することで、日本の問題点を見てみましょう。
「産む」権利と対置される「産まない」権利の行使には、旧来から主として「避妊」と「人工妊娠中絶」の二つがあります。
今や避妊率の高さは、リプロダクティブ‐ライツを標榜する先進国にとって必須要件です。
日本の場合、男性コンドームの依存率が約35%(避妊率46.5%中)(2019年p80)と、他の国よりも高く、日本における避妊法の大半はコンドームであることがわかります。
この結果に著者は、「いわゆる儒教文化圏ならではの家父長制による男性主導主義が、鮮烈な形で残存している証拠といっても過言ではなかろう」(p82)、
「これは女性自身による意思決定がいかに脆弱で、大きく男性に委ねているかが示された数値にほかならない」(p88)と考えます。
一方でフランスやオランダ、イギリスのコンドーム使用率は避妊率60-70%に対してわずか8%に留まります。
コンドームよりもピルやIUD(子宮内避妊リング、日本では2007年に承認)の使用率が高いのです。
IUDもフランスならほぼ無料なのだとか
しかし、今では性についての問題が取り上げられることが増えています。
例えば、トランスジェンダーを扱うことが問題とされて、KADOKAWAが2024年1月に出版予定だった『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇(監修・岩波明/訳・村山美雪、高橋知子、寺尾まち子)』は発売中止。
代わりに、産経新聞出版から、『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』という題名で、同じ本の翻訳が出版されました。
(本の帯には、「あの『焚書』ついに発刊」という宣伝文が掲載。)
ここでは話題になった「トランスジェンダーになりたい少女たち」を取り上げ、どこが問題になるのかを見ていきます。
リプロダクティブ‐ライツと性の問題点
リプロダクティブ‐ライツには女性の自己決定権が関わってきます。
しかし、その前に私は女性/男性であるのか?
というアイデンティティの不安定さから、ジェンダークリニックを訪れる子ども(多くが女子)の数がアメリカで10年前に比べ1000%以上増加、イギリスでは4000%以上増加。(トランスジェンダーになりたい少女たち p72、2017年のデータでそのうちの4分の3が少女)
トランスジェンダーを自認することが少女たちに流行している、と本では述べられています。
かつては性同一性障害とよばれていた性別違和は、自身の生物学的な性別にはげしい不快感をずっといだきつづけるのが特徴でした。
ところが、この少女たちに流行しているトランスジェンダーは、「変わることがある」ことが特徴です。
トランスジェンダーだと主張するある少女は言います。
「男になりたいと思っているかどうかは自分でもわからない。
ただ女でいたくないと思っているのは確かなの」と。
(p35)
少女がトランスジェンダー(女ではいたくない)だと発言すると、その発言に対して世間が過敏になってしまうことを著者は懸念している
同性愛とトランスジェンダーの違い
同性愛とトランスジェンダーの違いを述べている個所を本から抜粋します。
同性愛者だとカミングアウトした子供は本来の自分を認めるよう親に求める。
いっぽうトランスジェンダーを自認する子供は本来の自分ではないことを認めるよう親に求める。(p171)
思春期の子供たちの性自認は「時間とともに変化するかもしれないし変化しないかもしれない」のです。
また、子供たちではなくても、一部の人にとっても、ジェンダーは生涯にわたって流動的なものなのかもしれない可能性もあります。
ジェンダーが流動的なもので必ずしも男女の二択でなくともかまわないという考えを社会がもっと楽に受け入れるようになって、時間につれて人々が変わることを許容できたら、変化する人がもっと多くなり、人生のある時点で性別を変え、またある時点で違う方向に変わったとしてもそれほど問題にならないでしょう。
それを望んでいる人がいるのです。
(p174 カウフマン博士の言葉)
政治的問題とジェンダー
性自認(自分自身の性に対する、言葉にはできない個人の感覚)は変わらないという証拠はほとんどありません。(p210)
けれど、アメリカの反差別法では’’変わらない’’ということが重視されます。
「アメリカの最高裁判所は、憲法修正第十四条の法の下の平等な保護条項は人種や性別といった特徴は保護するが、たとえば髪の色は保護しないことを示している。
それには保護される特徴は’’変わらない’’ものだという理由もある。
髪の色はほんとうに変えたければ変えられるし、それは自分の命に関わることを放棄しなくても可能だからだ。」(p209)
その時に決めてよかったこともあれば、後悔することもある
ARTに象徴的に表れる今日の私たちの生き方は、実は極めて反自然的な方向へと向かっているのではないだろうか。そしてそのような生き方が、私たちを女性性への緊縛から解放し、より自由に解き放つことに繋がるとするならば、当事者としての私たち自身は、こうした自らの生き方をどのように受け止めるべきなのであろうか。いわゆる本質主義と構築主義との対立を超え、現実的に考えなければならない局面に今、私たちはいる。
(p129)