第1節「生命の倫理」
3.生命の質(QOL)と自己決定
- 生命の質と「安楽死と尊厳死」の違い
- 生命の質と「安楽死と無益な治療」の問題
- 生命の質と「安楽死と臓器移植」の関係
参考文献 「安楽死が合法の国で起こっていること」(児玉真美)、「安楽死か、尊厳死か」(大鐘稔彦)、自分の頭で考える日本の論点(出口治明)
生命の質と「安楽死と尊厳死」の違い
まず基本事項として捉えておきたいことが、安楽死と尊厳死は終末医療の現場で説かれている、ということです。
日本の終末医療では、回復に見込みがなく死期のせまっている患者に対して生命の質と自己決定権を尊重するという観点があります。
そこから、本人がのぞまない治療を打ち切り、人間の尊厳を保ったまま自然な死を迎えさせる(尊厳死)べきだという主張もされるようになりました。
ここで押さえておきたいのが安楽死と(日本における)尊厳死の違いです。(海外における尊厳死の定義は異なる)
安楽死と尊厳死の違い
- 日本における尊厳死⇒消極的安楽死。
それまで続けてきた、あるいは多少の延命のためになされるであろう医療を拒否して、あとは自然の成り行きに任せて死を待つ姿勢。 - 安楽死⇒積極的安楽死。
医療をストップし、延命も望まず、死を早める医薬を医者に投与してもらうこと。
医者は自殺幇助に相当することになる。
(人により概念が異なるので、ここでは一般的な区分けの一つとして提示)
小説「高瀬舟」で、弟が自殺を失敗して苦しんでいる最中に兄が帰宅。
弟は兄に喉のナイフを引き抜いて死なせてくれと懇願し、それに答えた兄が弟殺しの罪を着せられる
(安楽死か、尊厳死かp127参照)
医者は家族の要望に応えたと述べたけれど証拠がなく、殺人罪で起訴された
また、「海外では合法化されているのだから日本でも安楽死の合法化を」と主張する人をよく見かけるが、医師幇助自殺のみを合法とし積極的安楽死はなお違法という国や州もあることは知っておきたい。例えば‐スイスで容認されているのは医師幇助自殺のみ。「海外の安楽死」としてよく引き合いに出されるスイスだが、かの地では積極的安楽死は今なお違法行為である。
(安楽死が合法の国で起こっていることp18)
(以下、「安楽死が合法の国で起こっていること」を引用)
「安楽死」の前提
「安楽死」に共通する3つの前提。
- 意思決定能力のある人本人の自由な意思決定による
- 所定の手続きを踏み、所定の基準を満たしたとして承認された人だけに行なわれること
- 所定の手順に沿って医療職から提供される手段によること
例えば、家族や社会の負担になることを理由に、本人以外の意思によって積極的安楽死で合法的に人を殺害することを認める制度は地球上のどこにも存在しません。
安楽死が合法の国で起きていること
安楽死の問題を取り上げていきます。
安楽死には「すべり坂」問題があると筆者は述べます。
(すべり坂⇒ある方向に足を踏み出すと、そこは足元がすべりやすい坂道になっていて、足をすべらせたらどこまでも歯止めなく転がり落ちていく)
例えば、安楽死の対象者が認知症や慢性病、障害をわずらう人など、もともと自殺率が高いと言われる人たちへと際限なく広がっていくことです。
安楽死の基準が「救命できるかどうか」から「生命の質(QOL)の低さ」へと変質している傾向があります。
安楽死の医療現場(p58‐61参照)
安楽死が緩和ケアとしてルーティン化した現場では、患者の「死にたい」という言葉はそのまま額面通りに受け止められる。
医療職はその言葉の「意思決定」を「誤った義務感(法律にあるから)」から実行する。
「患者には寛容でなければならない」という職業規範。
こういった法律に従う医療職は、安楽死に慣れて機械的な思考におちいる傾向がある。
医師が「安楽死という手段もありますよ」と述べることで患者が泣き崩れることもある。(医師からの安楽死の提案は禁止される傾向)
また「自分で決定できるうちに尊厳死への承諾を記入した方がいい」と言う医師の勧めに患者は従ってしまうこともある。
範囲が拡大することで「認知症の人、精神・発達・知的障害のある人、子ども」といった自己決定が困難な傾向がある人は、自分の本心とは異なった判断をされやすくなります。
安楽死が拡大解釈されることによって、問題は広がり続けるのです。
日本における安楽死の問題を見ていきます。
生命の質と「安楽死と無益な治療」の問題
日本の問題の一つは、安楽死と「無益な治療」との区別がつけられないままに、安楽死の問題が語られることです。
「死ぬ・死なせる」をめぐって、いま世界の医療では何が起こっているかを本質のレベルで把握するためには、安楽死の周辺で起こっていることだけに目を向けていたのでは見えないことがある。
安楽死合法化の拡がりの一方で、患者や家族が治療の続行を望んでも医療サイドに一方的に治療の差し控えや中止の決定権を認める「無益な治療(futile treatment)」論が同時進行しているからだ。
中心的な概念を「医学的無益性」という。
‐簡単に言えば「もうどうしたって助けてあげられない患者を甲斐のない治療で無駄に苦しめるのはやめよう」、
「そういう無益な治療は患者の最善の利益を考えて差し控えるべきだ」と、それ自体は至極まっとうな議論だった。
ところが、その議論は繰り返されるにつれ少しずつ変質してきた。
その間には世の中の事情、特に医療を取り巻く経済事情が変わっていったのだろう。
(p75)
世界各国では「生命維持を無益として中止を求める病院」と、「患者の家族」との間で法廷の争いが繰り広げられています。
では日本ではどのように言われているのでしょうか。
例えば、「自分の頭で考える日本の論点」(2020)で言われていることを見てみます。
「安楽死を認めるべきか」論点6
- 安楽死賛成派⇒「いつ死ぬかを決めるのは個人の権利」
「(特に日本では)家族や周囲の人に迷惑をかけたくないので、早く死なせてほしい」という気持ちから安楽死を望むケースがある - 安楽死反対派⇒安楽死の容認は弱者の排除につながる。
死を選ばされる恐れにもつながる
本では賛成、反対の意見を述べた後、鍵は「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)」にあると語ります。
ACP⇒本人が家族や医師や介護提供者などと話し合いを持ち、コンセンサス(合意)を共有しておこうという仕組み。
特に、日本の医療では意図せずに人工呼吸器をつけられてしまうけれど、それを外す段階になると医師が殺人罪に問われかねない、とあります。
「生命が維持されても昏睡状態のままという状態が続けば、家族は医療費捻出のために、家まで売り払わなければならないかもしれません」(p126)
「本人の意思がACPで明らかなので延命治療は要りません」などとためらわずに話せるようになります。(p128)
「最終的に優先されるべきは、たとえ虚構であろうと本人の自由意志であるべきです。
本人のことを決めるのは本人以外にはあり得ません」(p130)
このような「人に迷惑をかけない」というのは日本的な思想です。
(また日本では、ACPと似たリビング‐ウィル(前もって自分の意向を文書により表明したもの)を普及させる運動が展開)
しかし、ここに見落とされがちな視点があります。(以下はまた「安楽死が合法の国でおこっていること」から引用)
日本の文化的土壌
日本の「尊厳死」法制化を求める声は、病院の医療に疑問を投げかける施設や地域の医師たちが患者に向けて「尊厳死を選べ」と説く形で広がりました。
「自己決定をしておけ」と説く形での合意も、日本では患者の主体的な自由意志による「意思決定」だとされます。
医師が患者に意思決定を促す土壌が日本にあるのです。
ここには年齢による線引きとともに、患者が「社会にとって有用な人かどうか」を問う意識もくっきりと顔を出している。
言い換えれば、この医師は患者が「積極治療の適応かどうか」を「医学的無益性」ではなく「患者の無益性」で測っている。
しかも、そのことに恐ろしく無自覚だ。(p127)
筆者は日本には障害のある人に対して差別的な風土があるのではないか、と述べます。
そして、それこそが実は「医学的無益性」という概念で装われているものの正体ではないか、と疑問を持つようになったと言うのです。
- 本来の「医学的無益性」⇒患者の最善の利益を考えて医療を差し控える
- 「医学的無益性」の隠れた正体⇒患者の無益性によって、医療側が医療の差し控えを要求する
この傾向は医療がひっぱくしていたコロナ下では特にあったらしい
自己決定とは
日本の特徴は、医師の決定権が患者の自己決定権よりも強い点が見られると筆者は説きます。
例えば、欧米から輸入されたインフォームド・コンセント(十分な説明と同意)の主語は患者です。
患者の権利擁護と自己決定権の保証という理念を背負って生まれた概念(p154)
しかし、日本では「インフォームド・コンセントをする」という形で、医師が主語となる使い方が当たり前になっていると説かれています。
日本の医療では、「患者が決める」ことは「医療職の我々が患者の意思を尊重してあげる」ことへと主体がすり変わってしまうのだ、と。(p155)
さらに日本の特徴として、映画『PLAN 75』(75歳を超えると自分から安楽死を選べる法が可決された日本、という設定の映画)から見てみます。
この映画では、登場人物たちが75歳を超え、安楽死制度に流されて死んでいく様子が描かれているのです。
「PLAN 75」
- 主な登場人物たちは安楽死制度そのものに疑問や抵抗感を抱いているようには見えない(p162)
- 決まったことを受け入れ、思考停止し、ただ従う日本人らしさが漂う作品
- 「誰がやっているのか顔が見えない中でひとりひとりの尊厳が奪われていく」「『選んで』いるわけではないけど、そっちに流されていく」
といった、日本型「自己決定」の本質を突いた作品(p163)
ちなみに、オランダでは2016年に75歳以上の高齢者が冷静に熟慮したうえで死にたいと望む場合には、安楽死を認める法案が議会に提出された。
翌年には潰えたけれど、高齢者に安楽死を、という動きは今後も続く挙動がある(p31)
日本の安楽死における問題を本から抜粋します。
英語圏の医療倫理の議論が「パターナリズム(強い立場の人が弱い立場の人を干渉する)」から「患者の自己決定権」へ、そして「無益な治療」論の「医師の決定権」へと経めぐりながら、さらに「共同意思決定」へと、いわば「らせん状」にぐるりと一回りしてきたとしたら、日本にはその「らせん」のプロセスの内実が欠けていることを無視することはできない。
‐医療現場では今なお医師の権威が圧倒的に大きく「患者の自己決定権」概念が医療職サイドにも患者サイドにも十分に成熟していない日本に、「死ぬ権利」という言葉だけが安直に輸入されても、それは人生の最後に患者の意思を本当に尊重するための概念としては機能し得ないだろう。
(p166)
次に、安楽死と臓器移植の問題にも触れます。
生命の質と「安楽死と臓器移植」の関係
- 1960年代に「脳死」の概念が導入。
- 1970年代からは脳死者から臓器提供が主流となっていく。
- 1990年代には臓器不足解消を課題として、脳死よりも前段階の定義をつくることで臓器提供がしやすい分類を作成した。(マーストリヒト分類)
例えば、甚大な脳損傷を負っていたら脳死ではなくても、その患者からの臓器摘出を認めよう、など(p113)