倫理は大学受験にも使える教科です。
私自身、予備校での倫理の授業に興味をもちました。
勉強が面白い!
このように大学の哲学科に行くきっかけにもなった教科です。
人は心が動いたものに関して、よく記憶する傾向があります。
このブログの目的は、倫理を身近なものにしてもらおうという試みです。
倫理を教科書に沿って、わかりやすく紹介していきます。
(※すべては紹介できませんが、章ごとの問いをみていきます)
このブログでも現代と結びつけて見ていくよ
第1節「青年期の意義」 1人間とは何か
- 「人間とは何か」をなぜ問うのか
- 哲学者はどのように「人間」を定義したのか
- 21世紀の「人間」とは
「人間とは何か」をなぜ問うのか
高校倫理の問いは「人間とは何か」から始まります。
人間は英知人「ホモ‐サピエンス、知恵のある者」という定義はもっとも有名です。
1758年に分類学者の祖と言われる生物学者カール・フォン・リンネによって定義されました。
さて、ここで疑問です。
なぜホモ‐サピエンスがもっとも有名なのでしょうか?
「人間とは何か」という問いは、昔から考えられてきました。
例えば、古代ギリシャ人たちは「人間とは何か」という謎は人間自身には答えることができないと語ります。
他にも、旧約聖書によれば、宇宙のすべては神によってつくられ、神はみずからの似姿として人間を創造したとあるのです。
分類学が発展し、「人間」を定義する必要があったというのは、「人間とは何か」を問う理由の一つです。
では、他の賢人は「人間」をどのように定義してきたのでしょうか。
人間を賢人はどう定義したか
リンネは人間の特質を知性(理性)にあるとしました。
これで人間と他の生物を分けられる!
それに異を唱えた一人がベルクソンです。
ホモ・ファーベル
フランスの哲学者ベルクソンは人間はホモ・ファーベル(工作人)だと言いました。
(思想と動くもの ベルクソン著 )
人は言葉や概念を持ちます。
しかし、その言葉や概念をはじめに人間が作り出したから持てるのではないか?と考えたのです。
例えば、哲学でなぜ問題解決ができるのかというと、人が問いや言葉を考え出しているからです。
既存の言葉では言いあらわせない事実を他の言葉を作ることによって表わす。
存在するものに向かうのではなくて、存在しないものに向かうエネルギーが人間らしさなのではないか、と。
人間は理性だけでは語ることができないということを、哲学を比喩にとってベルクソンは語ります。
- 死んだ哲学⇒言語だけで規定されている哲学
- 生きている哲学⇒新たな可能性をつくる哲学
ベルクソンは問います。
単純さだけで表されるのが世界なのだろうか?と。
わかりやすさで捉えることも必要だけれど、それですべては語ることができないとベルクソンは主張しています。
言語と言語以外の可能性があることをベルクソンは述べるのです。
人間はホモ・サピエンスだと定義してしまうことは生の躍動(エラン・ヴィタール)がなく、ただの死んだ哲学です。
ホモ・ルーデンス
ホモ‐ルーデンス(遊戯人)と述べたのはオランダの歴史家ホイジンガです。
遊びは文化に先行しており、人類が育んだあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれた。
つまり、遊びこそが人間活動の本質であると述べたのです。
ホイジンガが遊びを主張したとき、遊びを忘れた大人への批判がありました。
子どもの「真剣さ」から遊びをみたときに、その重要性を主張したのです。
その他の定義
ドイツの哲学者カッシーラーは人間をアニマル‐シンボリクム(シンボルを操る動物)と定義。
宗教学者ミルチャ・エリアーデは人間をホモ‐レリギオースス(宗教人)と定義。
アメリカの哲学者エリック=ホッファーは人間を一言では定義せずに人間の持つ多面性に注目。
フランス画家ゴーギャンは人間の持つ二面性に注目。
なぜこのような賢人が倫理において注目されているのか。
私たちにどのような人間の在り方を学んでほしいのか、と考えさせられます。
「人間とは何か」という21世紀の問い
人間を学問的に定義することによって、ある弊害が出てきました。
哲学者フーコーの一文がそれをよく表しています。
人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するだろう
この「人間」というのは人間らしさから定義されてきた「人間」のことです。
人間は自分独自の考えをもっていて、躍動的エネルギーがあって、知性があって、というようにさまざまに人間を定義してきました。
それに対して、そんな人間はいない、という痛烈な一言です。
人間というのは社会という監獄に閉じ込められた囚人にすぎないのではないか。
>>自由意志とは
今まで思い描いてきた人間像は幻想にすぎないのではないか。
浜辺に「人間」の似顔絵をかいたとしても、あっというまに波が消してしまうと述べたのです。
人間は自分自身を監視する牢獄に閉じ込められ、管理や支配をされている存在なのだとフーコーは語りました。
>>フーコーの人間とは何か論
科学技術が発展し、人間の体、脳、精神、それぞれの解明度が上がっていった結果、新たな「人間とは何か」という問いがでてきたのです。
答えのでていない問いがそこにあるんだね
科学的に解明された人間
心理学や社会学は「人間とはこういうものだ」という定義から学問が形成されていきます。
実験やデータに一般性を持たせられるのは、そのように人間を見ているからです。
なので、その学問の視点からでしか人間を見ないことは危険。
科学的に人間がわかれば、簡単に非人間扱いをしてしまうことも可能だからです。
>>洗脳とは何か
フランツ・カフカは、主人公が毒虫になってしまう作品「変身」を書きました。
知性があって言葉が話せても、見た目や行動が虫。
主人公が虫扱いされていく苦悩を描いています。
歴史からみる倫理的な問い
差別という視点から歴史的にも「人間」を見ていきましょう。
「人間」を定義したとしても、その人を人間だとみているのか、という問いです。
奴隷制度
一つは奴隷制度。
例えば、1776年のアメリカの「独立宣言」に書いてある「すべての人間」に黒人奴隷は含まれていませんでした。
差別によって特定の人を人間だとみなしていない歴史があったのです。
今でも「人間」に含まれていない人がいることが想像できます。
性別
他にも、性別。
昔の選挙で規定されているものの中には、「人間」に女性や未成年が含まれていないことがありました。
人間の定義があったとしても差別ができてしまう、ということが問題になります。
人間として差別されていないか、というのは21世紀の倫理的問題です。
人間とは何か|まとめ
今回は倫理の教科書の一章を見ていきました。
人間の定義を考えるとき、それと一緒に人間らしい生き方とは何か、を考えることができます。
「私」ではなく「人間」とは何かという問いは、人との関わり方を考えるきっかけにもなってくるのです。
>>青年期とは何か