古事記

神と古事記|高校倫理3章1節古代日本思想②

このブログの目的は、倫理を身近なものにすることです。
高校倫理 新訂版 平成29年検定済み 実教出版株式会社)を教科書としてベースにしています。
今回は
高校倫理第3章
「日本人としての自覚」
第1節「古代日本人の思想」
②神と古事記
を扱っていきます。
前回は①「和辻哲郎の『風土』」を扱いました。
>>和辻哲郎「風土」をわかりやすく
今回②は古代日本の神との関わりと古事記を扱っていくのですが、倫理の教科書と古事記をベースに扱っていきます。
古事記⇒日本の日本神話を含む歴史書で、現存する日本最古の書物(712年)
ブログ構成
  • 神と祭祀
  • 神理解の特徴
  • 神と禊と祓え(はらえ)

参考文献 「古事記を読みなおす」三浦佑之

神と祭祀

生命力にあふれ、四季や台風など変化の激しい自然環境に暮らす古代日本人。

その暮らしの中で神について独自の理解が形成されていきました。

自然にはたくさんの神々(八百万の神)がいると考えたのです。

八百万の神(やおよろずのかみ)⇒多種多様な数多くの神々
いろんな神がいるから、「古事記」では神なのか人なのか、話してみないとわからなかったというストーリーもあるよ
オオハツセ(天皇)が王であるときに、他に偉そうな人がいて無礼だと思って聞いてみると神(ヒトコトヌシ)だった。
それでオオハツセが謝って神を奉ったという話
神は定まった形をもちません。
自然のなかに霊魂の存在を認める考え方をアニミズムと言います。
神が矢に化けたりして、人間と子どもをもうけたりしてる

祭祀とまれびと

ときに災厄として、ときに恵みとしてあらわれる神について、民俗学者の折口信夫(おりぐちしのぶ)は「まれびと」という性質を持つと考えました。
まれびと⇒まれに訪れてくる神または聖なる人
例えば、代表的なのが「なまはげ」です。
恐ろしい面をかぶり、出刃包丁を手にしたなまはげ。
恐怖なのですが、五穀豊穣、無病息災をもたらす来訪神でもあります。

神理解の特徴

和辻哲郎は日本の神話を分析し、そこに究極的な神が存在しないことを見いだしました。

「古事記」によれば、日本でもっとも貴ばれているアマテラス大御神(おおみかみ)は、貴ばれている神でありながら、みずから何らかの神を祀る神として描かれています。

和辻はイザナキ、イザナミ、アマテラスなどを「祀るとともに祀られる神」として、それらの神がただ祀られるだけの自然神(山の神など)より尊貴だとされているところに、日本神話の神の特徴があるとしています。

謙遜とか、自分は控えめな態度をとるとか、そういうのが日本思想で美徳とされる理由にもなりそう

「なる」神

神話というのは文字のない当時の人々の歴史として、口伝えで受け継がれてきました。

「古事記」には世界の始まりも記されています。

天空にある高天の原という神々の世界に、三柱(柱は神の数詞)の神が成り出ます。

だれかが造ったわけではなく、「なる」のです。

この成るという発想こそ神話の「古層」だとみたのは、思想史家の丸山眞男(まさお)でした。

丸山は、世界の創成神話には、「つくる」「うむ」「なる」の三つの語り方があって、古事記の場合、「なる」が古層にあり、それは、主体を必要とする「つくる」や「うむ」とは違うと考えました。
「古事記を読みなおす」三浦佑之 p24)

「柿がなる」とかいうときのナルなんだって
天と地がはじめて姿を見せた時のさまも同じです。
何もないところに、ある時ふと姿を見せる、というように天と地があったと古事記では述べられています。
さらに、この「なる」という考え方は人にも適応されています。
古事記において人は「うつしき青人草」。
青草人じゃなくて、青人草!
草が人なんて草
笑い話じゃなくて、古代の人々にとって、人はまさに「草」だったらしい
神との対比として人は草です。
人はごく素朴な循環する自然としてあり、そのような存在として自覚されていたと「古事記を読みなおす」では述べられています。
神の子は永遠の命をもつと考えられていた一方、普通の人間たちである青人草は、最初から死ぬべきものという認識が古事記にはあるそうです。

神と禊と祓え(はらえ)

祭祀においては、身体についた穢れ(けがれ)を水で洗い清める(みそぎ)が求められました。

禊は古事記では初めの方で登場します。

古事記では、イザナキとイザナミという男女神が、性的な交わりによって島や大地やさまざまな自然神を産み成して世界を造ります。
「古事記を読みなおす」三浦佑之 p27)

この産み成す過程において、イザナミが火の神を産んだために産道を焼かれて黄泉の国に去ってしまいました。

悲しんだイザナキが黄泉の国(死者の国)にイザナミを迎えに行くことにします。

黄泉の国においてイザナミはウジ虫がうごめく腐乱死体となっていました。

黄泉の国でイザナミは待っててって言ったんだけど、イザナキは覗いてしまって、その姿を見てしまったよ

イザナキは逃げ、黄泉の国(死者の国)と葦原の中つ国(地上世界)を大きな岩と言葉で遮断しました。

遮断したときにイザナミは怒って、「あなたの国の人草を一日に千殺しましょう」と言う。
代わりにイザナキは「われは、一日に千五百の産屋を建てよう」と話しているよ
ここらへんのやり取りから「人は草」とわかるみたい
黄泉の国から戻ったイザナキは身についた穢れを浄化するために、禊ぎをしました。
体についた穢れを水で洗い流すとき、左目と右目を洗うと日の神アマテラスと月の神ツクヨミが、鼻を洗うとスサノヲが生まれたと語ります。
海水での禊ぎで神が生まれたんだね!

今でも葬儀の参列者に穢れ(けがれ)を清めるための塩が配られることがあります。

禊と清明心(せいめいしん)

また祭祀において、「清き明き心」(清明心)が重んじられました。

清明心⇒嘘いつわりなく純粋ですみきった心

「古事記」では、スサノヲが父イザナキの命令に従わずに姉のアマテラスに会いに行く場面があります。

スサノヲの過去の乱暴もあって、姉のアマテラスは自分の統治する高天原を奪いに来たのではないか?と疑いました。

そのときに、スサノヲの清明心にアマテラスは呪術を通じて真意を問います。

清明心は後の時代の「正直」(せいちょく)や「誠」などに受け継がれて、日本の倫理観の源流になっているよ
一方で、日本文化は「ウチとソト」の使い分けとして、「本音と建前」みたいな考え方もあるね

禊と祓え(はらえ)

スサノヲは高天原で、アマテラスの稲田の畔(あぜ)を壊したり、糞をばらまいたり、それらの狼藉によって女神が死んでしまうなどがありました。

このような農耕や祭祀を妨害したり、共同体をおびやかすことは罪とされます。

この罪を解くためには祓え(はらえ)が必要とされました。

神様なのに乱暴者…
「古事記」は語り口でみんなに読み伝えられていった文学でもあるよ。
共感だったり、物語性だったり、主人公の視点がいろいろだったりしている

祓えは、古くは罪に応じた物品を献じることを意味します。

スサノヲはアマテラスに多くの物品を献じたうえで、高天原を追放されました。

病気や災害もまた、罪に数えられたのは、古代の人々にとって、罪が、外から心身にふりかかり、まとわりついたものと考えられていたからである
(倫理の教科書p79)

悪いことを働くのは、何かが付いているって考えるんだね
日本の罪観念は「水に洗い流す」にあらわれているらしい
もともとはは穢れを払うもの、祓えは罪を解くためのものでしたが、平安時代以降に混同されるようになったと言われています。
特に六月と十二月の晦日(みそか)に、国中の罪を祓い清める「大祓(おおはらえ)」などがおこなわれ、知らないうちにおかした罪や穢れを取り除き、国家安泰を祈りました。
「石清尾八幡宮の6月の大祓い。
人形に自分の名前と年齢を書いて供え、茅の輪(ちのわ)くぐりを行う」

「古事記」と「日本書紀」の違い(教科書外)

ちなみに、「古事記」と「日本書紀」が日本最古の歴史書でもあり、両方を合わせて「記紀」と言います。
二つの違いは一般的にこのように言われます。
  • 「古事記」は国内向けのもの、「日本書紀」は国外向けの公式なもの
  • 「古事記」は情緒的な語りで人々を魅了する、「日本書紀」は歴史として味気ない

このように言われている観点から見て、倫理の教科書では「古事記」を扱っています。

後世に『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者である本居宣長は、『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないことを述べ、『古事記』を最上の書と評価した。(「日本人はなぜ日本のことを知らないのか」(竹田恒泰)p48)

古事記はシェイクスピアの「ハムレット」ともとれるような構成があったり、滅びの美学とでもいえるような雰囲気が漂っているとも言われています。

わたしなりに理解して言えば、滅びていったもの、滅びようとしているものに心とことばとを向けているのが古事記ではないか。
「古事記を読みなおす」三浦佑之 p259)

本当の父は今の父(大君)に殺されたことを7歳で知ったマヨワ(目弱王)は、今の父をすぐに殺害。
これによって追われる立場になったマヨワ目線と、これを追うオホハツセ(雄略天皇)目線が物語にあるよ
今回は古代日本思想の「神と古事記」をやりました。
次回は日本の仏教思想を扱っていきます。
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