「日本人としての自覚」
第1節「古代日本人の思想」
②神と古事記
>>和辻哲郎「風土」をわかりやすく
- 神と祭祀
- 神理解の特徴
- 神と禊と祓え(はらえ)
参考文献 「古事記を読みなおす」三浦佑之
神と祭祀
生命力にあふれ、四季や台風など変化の激しい自然環境に暮らす古代日本人。
その暮らしの中で神について独自の理解が形成されていきました。
自然にはたくさんの神々(八百万の神)がいると考えたのです。
それでオオハツセが謝って神を奉ったという話
祭祀とまれびと
神理解の特徴
和辻哲郎は日本の神話を分析し、そこに究極的な神が存在しないことを見いだしました。
「古事記」によれば、日本でもっとも貴ばれているアマテラス大御神(おおみかみ)は、貴ばれている神でありながら、みずから何らかの神を祀る神として描かれています。
和辻はイザナキ、イザナミ、アマテラスなどを「祀るとともに祀られる神」として、それらの神がただ祀られるだけの自然神(山の神など)より尊貴だとされているところに、日本神話の神の特徴があるとしています。
「なる」神
神話というのは文字のない当時の人々の歴史として、口伝えで受け継がれてきました。
「古事記」には世界の始まりも記されています。
天空にある高天の原という神々の世界に、三柱(柱は神の数詞)の神が成り出ます。
だれかが造ったわけではなく、「なる」のです。
この成るという発想こそ神話の「古層」だとみたのは、思想史家の丸山眞男(まさお)でした。
丸山は、世界の創成神話には、「つくる」「うむ」「なる」の三つの語り方があって、古事記の場合、「なる」が古層にあり、それは、主体を必要とする「つくる」や「うむ」とは違うと考えました。
(「古事記を読みなおす」三浦佑之 p24)
草が人なんて草
神と禊と祓え(はらえ)
祭祀においては、身体についた穢れ(けがれ)を水で洗い清める禊(みそぎ)が求められました。
禊は古事記では初めの方で登場します。
古事記では、イザナキとイザナミという男女神が、性的な交わりによって島や大地やさまざまな自然神を産み成して世界を造ります。
(「古事記を読みなおす」三浦佑之 p27)
この産み成す過程において、イザナミが火の神を産んだために産道を焼かれて黄泉の国に去ってしまいました。
悲しんだイザナキが黄泉の国(死者の国)にイザナミを迎えに行くことにします。
黄泉の国においてイザナミはウジ虫がうごめく腐乱死体となっていました。
イザナキは逃げ、黄泉の国(死者の国)と葦原の中つ国(地上世界)を大きな岩と言葉で遮断しました。
代わりにイザナキは「われは、一日に千五百の産屋を建てよう」と話しているよ
今でも葬儀の参列者に穢れ(けがれ)を清めるための塩が配られることがあります。
禊と清明心(せいめいしん)
また祭祀において、「清き明き心」(清明心)が重んじられました。
「古事記」では、スサノヲが父イザナキの命令に従わずに姉のアマテラスに会いに行く場面があります。
スサノヲの過去の乱暴もあって、姉のアマテラスは自分の統治する高天原を奪いに来たのではないか?と疑いました。
そのときに、スサノヲの清明心にアマテラスは呪術を通じて真意を問います。
禊と祓え(はらえ)
スサノヲは高天原で、アマテラスの稲田の畔(あぜ)を壊したり、糞をばらまいたり、それらの狼藉によって女神が死んでしまうなどがありました。
このような農耕や祭祀を妨害したり、共同体をおびやかすことは罪とされます。
この罪を解くためには祓え(はらえ)が必要とされました。
共感だったり、物語性だったり、主人公の視点がいろいろだったりしている
祓えは、古くは罪に応じた物品を献じることを意味します。
スサノヲはアマテラスに多くの物品を献じたうえで、高天原を追放されました。
病気や災害もまた、罪に数えられたのは、古代の人々にとって、罪が、外から心身にふりかかり、まとわりついたものと考えられていたからである
(倫理の教科書p79)
人形に自分の名前と年齢を書いて供え、茅の輪(ちのわ)くぐりを行う」
「古事記」と「日本書紀」の違い(教科書外)
- 「古事記」は国内向けのもの、「日本書紀」は国外向けの公式なもの
- 「古事記」は情緒的な語りで人々を魅了する、「日本書紀」は歴史として味気ない
このように言われている観点から見て、倫理の教科書では「古事記」を扱っています。
後世に『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者である本居宣長は、『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないことを述べ、『古事記』を最上の書と評価した。(「日本人はなぜ日本のことを知らないのか」(竹田恒泰)p48)
古事記はシェイクスピアの「ハムレット」ともとれるような構成があったり、滅びの美学とでもいえるような雰囲気が漂っているとも言われています。
わたしなりに理解して言えば、滅びていったもの、滅びようとしているものに心とことばとを向けているのが古事記ではないか。
(「古事記を読みなおす」三浦佑之 p259)
これによって追われる立場になったマヨワ目線と、これを追うオホハツセ(雄略天皇)目線が物語にあるよ