「現代に生きる人間の倫理」
第6節「社会参加と幸福」
2.ガンディーと非暴力の思想
(ガンディー獄中からの手紙p118-120引用)
- ガンディーが政治運動を起こした理由
- ガンディーの非暴力の思想
参考文献 「ガンディー獄中からの手紙」森本達雄訳、「ガンディーの真実‐非暴力思想とは何か」(間永次郎)
ガンディーが政治運動を起こした理由
- ガンディーは一等車のチケットを手にいれ、夜の鉄道の旅に出た。
しかし、鉄道員に三等車に移るように命じられる。
断ったガンディーは、荷物もろとも駅のホームに強制的に放りだされ、駅の待合室で寒い一夜を過ごした。 - ガンディーが馬車に乗っていると、白人の乗客が生意気だと言いがかりをつけてきた。
その白人はスーツを着ていたガンディーに暴行を加え、馬車から引きずり落とそうとした。 - ガンディーは有色人種であることから、ホテル部屋をゆずってもらえなかった。
ガンディーは南アフリカで人生初の様々な人種差別を受けました。
ガンディーは自分がこの二週間に体験したことを、同僚のインド人たちに伝えた。これを聞いて彼らが驚いたのは、ガンディーが語った人種差別体験ではなく、ガンディーが人種差別体験を問題視していることだった。当時の南アフリカで、有色人種差別は至極当たり前の習慣だったのであり、彼らにしてみれば、「何を今さら」ということだった。まさに、ガンディーを人種差別体験以上に驚かせたのは、明らかに不正に思える社会的慣行を、被差別者たちであるインド人自身が自明のものとして甘受している姿だった。
(ガンディーの真実p39)
- 差別をする加害者側の意識の変革
- 差別をうける被害者側の意識の変革
ガンディーの能動的な非暴力運動は、このような二つの改革を目指すことになりました。
ガンディーは、社会で最も巨大な「暴力」を可能ならしめるものとは、専制君主や暴漢やテロリストではなく、社会の大多数の人々の何気ない不正に対する同意であると考えるに至った。
個人の無思想が、社会全体の人種差別の淵源であるとみたガンディーは、その不正に対する絶対的な不服従・非協力を誓った。
(ガンディーの真実p20)
ガンディーはまず断続的に南アフリカで不服従運動を行います。
そして、1914年には南アフリカの政治指導者であるヤン・スマッツと協定を締結。
ガンディーは人種差別法撤廃の要求を大幅に受け入れさせることに成功しました。
ガンディーの運動
インドに帰国後、ガンディーは南アフリカの成果やカリスマ性を認められて、インドの政治運動の中心的人物の一人となりました。
ガンディーはインド独立運動を三度起こします。
- 第一次独立運動(1919-1922)
ローラット法(イギリスのインド政庁が制定した治安法令)に反対する一斉休業運動 - 第二次独立運動(1930-1934)
塩の行進 - 第三次独立運動(1942-1944)
インドを立ち去れ運動
ガンディーが率いた反英独立運動は、それまで政治に無関心だったインド人農民の大多数を運動に動員しました。
例えば、大二次独立運動での塩の行進というのは塩税法(インドで自由に塩を作れなくなった)に対するデモです。
塩は誰もが必要とする調味料で、多くの人々の関心をひきました。
始めは78人を引き連れて、一日約10マイルずつ、ゆっくりゆっくりと、241マイル(約388㎞)を海沿いの町まで行進。
行進は日に日にふくれあがり、最終的には1万5000人の参加者になりました。
海岸沿いでは、塩税法を自発的に違反して製塩。
ガンディーや参加者は次々に逮捕されたり叩かれますが、ガンディーたちは暴力を振るいませんでした。
されるがままに逮捕されます。
けれど、刑務所がいっぱいになってしまったり刑務所を宿屋代わりにしたりなど、逮捕は罰になりませんでした。
かつ、法を撤廃させるために行なった断食も、日に日に死へ向かっていく自分を見せることで、人々の感情に働きかけた
ガンディーの非暴力の思想
なぜガンディーはこのような大規模な運動を起こせるまでにいたったのか。
その運動には「非暴力」という思想が根柢にありました。
それは非暴力が暴力に優るという歴史的にも初の事柄になったのです。
‐「そもそもガンディーはなぜ非暴力の運動をやろうと思ったのか」‐
「結局、彼の非暴力って何だろう」‐
こうした疑問を考える上で、第一に重要なことは、逆説的に聞こえるかもしれないが、私たちが一旦、ガンディーの非暴力思想を吟味する上で、「非暴力」という言葉にとらわれるのをやめる必要があるということだ。
‐私たちは非暴力という言葉を語るときに、どうしても字義通りの「暴力を用いないこと」や「力によらない方法」といった意味を真っ先に連想してしまう。
このようなイメージを持つことが、ガンディーの思想と運動の本質を理解することを妨げてしまうのである。
(ガンディーの真実p13)
非暴力が臆病者の盾になるとき、それはガンディーの「非暴力」ではない、と語っているよ
- 食⇒食の暴力を最小限に抑える。
われわれは他者の痛みと苦しみである食物を食べて、逆に快楽を感じるように「残虐な食システム」に依存しやすい。
ガンディーは何を美味しいと感じ、まずいと感じるかは変革可能だと考えて非暴力レシピ(健康的かつ何も傷つけない)を開発した。 - 衣類⇒ガンディーは「進化」とされる服飾文化は、人間の身体や健康という点からみれば「退化」だと考えた。
インドの綿織物産業の壊滅とイギリス資本主義の原料供給地としてのインドのモノカルチャー化こそ、近代インドの貧困問題の引き金だと考え、スワデーシー(国産品愛用)が良いと主張。
ガンディーは手作りの重要性を提唱した。 - 性⇒ガンディーは他者を傷つける性行動(レイプや強制売春など)だけでなく、他者を傷つけない自慰行為や同意の上で行われる性交渉さえ「暴力的」だと考えた。
性エネルギー(生命エネルギー)を「神聖な力(シャクティ)」であるとみなし、やたらに浪費すべきではないと主張。
ブラフマチャリヤ(すべての感覚器官の抑制をすること、禁欲)をすることで、性的欲望に支配されないことを目指した。 - 宗教⇒「様々な宗教は唯一の場に到達するための異なる道」とガンディーも考えた。
そのすべての宗教に通じる絶対的な真実に至る唯一の道が「非暴力」だとガンディーは主張した。
その真理の道にはアサンヒー(不殺生、愛)や慈悲も入っている。
さらに、ガンディーは「非暴力」はサッティヤーグラハ(真実にしがみつくこと)とつながっていると考えました。
サッティヤーグラハ
サッティヤーグラハはガンディーの造語で、「非暴力」という言葉を使う前に同じような意味でガンディーが使用していた言葉です。
「真実(サッティヤ)にしがみつくこと(アーグラハ)」。
この意味は、たとえ天地がひっくり返ろうとも、自らが「真実」だと思う信念に決して妥協を許さないという断固たる意志・実践の意味があります。
例えば、ガンディーは「できるだけ」やりますというビジネスマンの態度は信用できない、と述べます。
「できるだけ」何かを行うという態度は、すでに誘惑に負けていることを意味していると考えたのです。
ガンディーにとって、「真実にしがみつくこと」を意味するサッティヤーグラハとは、個人的願望や生存欲求に振り回されない「本当の自分」に出会っていく過程に他ならなかった。
(ガンディーの真実p240)
生存欲求である食や性を抑えたり、個人的願望であるファッションを自分にあったものにしたりと、非暴力は「本当の自分」に出会っていく過程だと解釈ができます。
ガンディーは暴力を、自ら(表層的自己)の欲望を満たす手段だと考えました。
他者を自らの欲望にひたすことが暴力である、としたのです。
このことから、自分の欲求や願望を抑えることがかえって「本当の自分」を実現できるという幸福を手にいれる上でかかせないとガンディーは考えました。
- 1000万人の自国の民(他者)が、苦しみ、泣き叫び、パニックになっていても、一心不乱に自分自身の解脱を求め続けた
- 家族にも自分の考えである平等を押し付け、その結果として家族関係は冷え切り、長男は「病める魂を持つ者」とされた
- マヌという19歳の女性を晩年に、自己の実験(ブラフマチャリヤ、禁欲)の「道具」として扱った
ここには「本当の自分」を求めるサッティヤーグラハなのに、かえって「暴力的な」自己中心性がありました。
ガンディーは平等性を突きつめるあまり、家族を特別視しなかった
そして、批判的に継承していった人々も現れました。
その後の影響
アメリカ合衆国の黒人解放運動の指導者キング牧師(1929-1968)は、ガンディーの思想を継承します。
「憎しみには愛をもって、暴力には非暴力をもって、そして物理的な力には魂の力をもってこたえなければならない」と主張し、白人に対する非暴力・不服従の抵抗運動を展開。
1963年のワシントン大行進には、約25万人の人々が参加するなど、公民権運動は多くの人々の賛同を得ました。
他にも、アメリカでは反政府運動やベトナム反戦運動がおこり、徴兵拒否という「市民的不服従」も実践されました。
これにより1964年には「公民権」が制定。
法のもとの平等が確立されましたが、今後の課題は実質的な平等の実現です。
今回はガンディーと非暴力の思想をやりました。
次回はロールズと正義を取り扱います。